130年前に松浦武四郎が命名した北海道1999年03月01日(月)萬晩報主宰 伴 武澄
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本州の北の大きな島を「北海道」と呼ぶようになったのはそう昔のことではない。明治以降、この地を正式に日本の版図に加えることになり、新たな呼称が必要になった。 大日本帝国は1869年(明治2年)、古来からある南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海道」だから「北海道」と呼ぶことに決めた。日本人にとって、それまではあの広大な地域を総称する呼称がなかったことは驚くに当たらない。 名付けの親は松浦武四郎である。江戸末期にエゾ地の探検家として名を馳せた。「近世蝦夷人物誌」などという著書も残している。北海道をくまなく歩き、挿し絵とともに和人に虐げられるアイヌの人々の苦難を愛情をもって描いている。 明治政府の役人としての最初の仕事が後世に「北海道」という名をのこしたのだから大変な名誉である。武四郎が選定した呼称に「日高見道」「北加伊道」「海北道」などがあったとされる。このうち「北加伊道」が採用され、「加伊」(かい)が「海」に代わった。カイとはアイヌが自らの地を呼んだ呼称でもあった。 古来、「北海道」はエゾ地とか、北州、十州島などと呼ばれていた。旧10国が置かれ、渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の地名はあったが、この島は単に「エゾ地」と呼ばれた。 室町時代以降、本州の商人がアイヌとの貿易のため移り住んだが、箱館に藩が置かれたのは江戸時代。エゾ地が徳川幕府の関心を呼び起こすのはロシアの南下と密接に関連があった。ここらの事情に関しては船戸与一の冒険小説「蝦夷地別件・上中下」(新潮社)に譲る。フランス革命と同時に北の果てで蜂起したアイヌの英雄伝は涙なくして語れない。 それでもロシア人がエゾ地にやって来て日本に通商を求めるまでの北海道の歴史は数行で書くこともできる。当時の日本人にとってエゾ地への関心は程度はそんな程度だったはずだ。ひょっとしたら今でもその程度かもしれない。 漠然とした概念では日本だったものの、箱館周辺の松前藩の外側は、中国風にいえば「化外の地」だったのである。アイヌが居住する地は征服するには自然が厳しく、江戸時代までの日本人にとって興味の対象であってもニシン漁以外に損得勘定がはたらく空間ではなかった。 当時、国境線がさだかでない「化外の地」は世界にいくらでもあった。 極東では樺太や千島列島、中国にとっての台湾も似たようなものであった。アラスカはロシア帝国が探検していったん獲得した版図を「化外の地」として米国に売却した話はだれもが知っていることであろう。 いまさら、100年以上も前の話をしても仕方がないかもしれない。しかし、19世紀の帝国主義時代に突入する以前の世界の国境の概念には現在では考えられないほどの無邪気さがあったのだ。 話を戻す。明治維新後、政府はエゾ地に新たな呼称を必要とした。新政府が、広大な未開拓地を新行政区に加えたからだ。正式に北海道とされたのは1869年である。たった130年前のことなのだ。 開拓のための役所を設置しようとしたとき、いい呼称がなかった。とにかく「北海道開拓使庁」という役所がこの年、設置された。そして旧佐賀鍋島藩主の鍋島直正が初代長官に就任した。 続いて1886年、政府直属の行政機関、北海道庁が置かれた。 驚くなかれ、北海道には開拓使庁は置かれたものの、実は知事がいなかった。それも戦後、地方自治法が施行されるまで、中央政府の長官が北海道を監督した。戦前の知事はいまのように選挙で選ばれることなく、政府が任命したから実体はそんなに変わるものではないが、どちらかといえば総督府が置かれた植民地の台湾や朝鮮と似たような地位に置かれ続けた。1948年、北海道はようやく本土の都府県並みの自治体となった。 「化外の地」について述べたのは、北海道が歴史的に他の日本の地域と違う扱いを受けてきたことを強調しておきたかったからだ。 松浦武四郎の著書「近世蝦夷人物誌」は、更級源蔵・吉田豊共訳「アイヌ人物誌」(1981年、農山漁村文化協会)に詳しい。
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