国債という日本の打ち出の小づち(2)1999年01月28日(木)萬晩報主宰 伴 武澄
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1999年01月25日付萬晩報「国債という日本の打ち出の小づち(1)」の続編である。
●だれが国債を買っているのか ここらの事情については1998年12月07日付萬晩報「国債窓販のチャンスを自ら返上した銀行団」に詳しい。 いまも昔も金利で一番有利だったのは郵便貯金、次いで銀行預金、そして国債と続いていた。それぞれにマル優枠があり、家族全員の名義で貯蓄すれば、数千万円まで利子が非課税となっていたから、郵貯、銀行、そして国債という順序で国民は資産形成していった。 また当時は発行額も少なかったため、国債発行で今日懸念されている「市中消化」にも問題はなかった。大蔵省とシ団が金利など発行条件を交渉し、その条件でシ団がすべて「引き受けて」いたから、売れ残ることなどあり得なかった。すべてが市中消化されたのである。 もちろんすべての国債を国民が保有したのではない。銀行や生保などシ団も多額の国債の保有を余儀なくされた。ただ国民にとって有利な貯蓄商品であっても金融機関の運用手段としては不利だった。国債金利は貸し出しに比べて格段に低かったからである。 そこで「金融機関は国債の売却をひかえ、そのかわりに発行後1年以上経過した国債は、日銀の成長通貨供給の見返りとして日銀の資産勘定に移る」(日本経済新聞社「昭和経済史」)ことになったのである。1960年代からすでに日銀による国債保有を可能とする制度改革が始まっていたのである。 「昭和経済史」の中で田中直毅氏は日本の国債発行の特異な点について「こうした御用金思想のもとでは、国債の借り換えや発行条件をめぐって、欧米諸国が苦労した国債管理政策の困難さを経験することはなかった」と指摘している。 国債発行が今日的課題として本格的に浮上したのはオイルショック後の1975年の補正予算以降である、またしても大幅な「歳入欠陥」が発生したのである。日本政府は再び巨額の「赤字国債」の発行を余儀なくされ、以降、日本丸は国債大量発行、国債依存症という病に悩まされ続けることになる。 こんどこそは市中消化難が本格化し、「市中消化」を促す施策が「金融自由化」の美名の下に段階的に打ち出されることになる。
1976年 大蔵省が通達で実質的な国債先物である「現先取引」を公式認知。 国債の大量発行は国債流通市場の拡大を促し、市場での売買の増大によって発行の際の金利決定にも市場原理が導入されるようになった。77年1月、初めて5年物中期国債が発行され、78年6月、日銀は入札方式による市中の国債を買い入れる「国債オペ」を実施、9月大蔵省は郵便貯金などの資金を運用する資金運用部による国債買い入れを決定するなど相次いで国債金利の高騰を押さえる策を打ち出した。 それでも国債金利は下がらず、80年5月、国債の応募者利回りはついに8.888%と史上最高の金利をつけ、国債市場では6.1%国債の流通利回りが12.422%にも達したのだった。 逆説的に言えば、1970年代後半から80年代前半には、大量発行イコール金利高騰という市場原理が十分働いていたといえよう。90年代に入ってこの原理が働かなくなるのは、日銀と資金運用部という政府部門が市中の国債をどんどん吸収していったからである。 日銀が発行する経済統計月報98年10月号によると昨年6月末の国債(政府短期証券を含む)残高は315兆円。このうち資金運用部が81兆円、日銀が54兆円、郵便貯金32兆円。実に6割弱を政府部門が保有している勘定だ。一方、民間は金融機関120兆円、信託26兆円、保険32兆円、証券5兆円となっており、個人保有ははたったの5兆円でしかない。 国民に保有してもらうはずだった当初のもくろみとは裏腹に国債は金融機関の資金運用のツールと化し、やがて国が発行して国がみずから買うというタコ足経営に陥ってしまった。(タコ足=空腹のタコが自分の足を食べること) 日本の借金はその規模が大きすぎ、増え方が異常だということはだれもが指摘してきた。そして借金が増えれば返済が大変になるのぐらいは小学生でも分かることである。ところが、借金が増えると金利が上がり、金利上昇によって景気を鎮める逆効果が現れるという当たり前の経済現象にはつい最近までだれも言及してこなかった。次回は「国債大量発行の矛盾」である。 |
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