職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー1998年02月27日(金)萬晩報主宰 伴 武澄
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ニューヨークに赴任したことのある資生堂の八木さんの、初めの半年の悩みは当時高校2年生だった娘さんのことだった。公立高校に通わせていたが、いつまで経ってもアメリカの学園生活に慣れなかった。ある日、高校のカウンセラーに「これ以上この学校にいても娘は慣れることはないだろうから、近くの日本人学校に転校させたい」と打ち明けた。 カウンセラーからの返事は八木さんを驚かせた。「あと一週間下さい。自分なりに最後の努力をしてみたい」。日本語では平凡な言い回しにしかできないが、英語ではまるでその娘さんを立ち直らせることが自分の義務であり、一週間の時間が与えられることが担当者としての権利のような言い方に聞こえた。一週間後、カウンセラーの努力のかいがあって娘さんは見事に立ち直った。 ●たった11ドルで得る手厚い教育システム 八木さんは言う。「われわれは年間の授業料として体育のウエア代金などたったの11ドルしか払っていないんですよ。なのに外国人に対するこの手厚い教育システム」。ただただ感動した。 ひるがえって自治体を含め長年、国際化を標榜してきたわが日本はどうだろう。日本語が出来ない外国人に対する特別クラスどころか、制度以前の日本人生徒によるいじめや村八分が待ち受けている。アメリカ社会でうらやましく思うことは、外国人だけでなくマイノリティーや障害者を社会に受け入れていこうとするモーメントが常に存在することである。 アメリカに差別がないわけでない。アメリカを無批判に礼賛しようというのでもない。1960年代前半までは、それこそ白人と黒人とが別々の学校に通うアパルトヘイトが存在する州が多くあった。しかし、差別をなくそうとする運動は、弱者や有色人種を擁護するアファーマティブ法として結実した。社会の効率を多少犠牲にしても「正義」を優先したのだ。1990年代に入ってこの法律が逆差別だとする批判もでているが、お蔵入りになるような勢いがあるわけではない。 ●求められる"異なるもの"を受け入れる度量 問題は、外国人子弟のアメリカへの定着が、犯罪増加や登校拒否と同じ土俵で論議されているのに対して、日本ではまったく異次元の問題としか捉えられていないことである。真の国際化とは、日本人が外国へ行ったり、外国語を使うようになることではない。誤解があってはいけない。日本の中で外国人が不都合なく暮らせたり、法律的にも日本人と同様の取り扱いを受けられるようになることである。 日本の教育現場で、外国人子弟がすんなり順応できるような環境になれば、きっと日本人の子供だって気持ちよく学校に行けるようになる。いま、大人にも子供にも日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量が求められている。 |
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