パリコレを魅了した桐生の布の魔術師の展覧会1998年11月03日(火)萬晩報主宰 伴 武澄
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萬晩報はたまには芸術を語りたい。今日は奈良に出かけ、東大寺の二月堂から荘厳な夕日をみてきた。 二月堂は以前から奈良で一番好きな場所である。特に生駒山系に沈む夕日がいい。東大寺の森に霞がたなびき、その向こうに陽が沈む様はなんともいえない。 欄干に寄り添って隣りで同じく夕日を見つめていたご婦人が「見ていてごらんなさい。陽が沈むとカラスが巣に帰り始めるんですよ」とつぶやいた。本当にそうなった。どこにいたのだろうか、たくさんのカラスが空に舞い上がり、群をつくって次々と若草山の方に向かい始めた。しばらくして西の空から満月が昇り、東大寺境内は静寂の世界に戻った。
●桐生の名を世界に広めた新井淳一氏 といっても新井氏の生み出す布を見ない限り、その感覚は分からない。筆者が新井氏の工房を桐生市に訪れたのは12年前。パリコレクションのデザイナーたちが桐生詣でをしているという情報を耳にして新井淳一の名前を知った。 当時、新井氏は「布は切って縫うものではない。まとうものです。布そのものに価値があるのです」と語っていた。世界中を歩き回り、多くの民族がつくり出す布の発掘に精を出していた。三宅一生もまた「まとう」ということを言い出していた。きっと新井氏に影響を受けたのだと思った。 いまではコンピューターで織物をつくり出す作業は当たり前だが、1986年当時、コンピューターで生地の図柄を設計するなどということは日本広しといえども桐生だけだった。織物の世界にコンピューターを導入したのも新井氏が先駆だった。彼の誇りは桐生から世界に発信するということだった。桐生がすごいのではなく、新井淳一氏が桐生を世界に広めたのだからすごい。取材していて、悲しかったのは地元の人たちが新井淳一の世界的価値を十分に理解していなかったことだった。
●布の市から想像の布へ 今日、新井氏から2時間ほど、最近の活動を聞いた。その最中に、富山県からきていた和紙の博物館の館長がやってきて、ドイツからも客人が訪れた。「想像の布」展の目玉はいくつもある。新井淳一のコンピューターによる織物はより進化していた。
「インターネットではないが、これからの織物はいくつもの流通を経て消費者の手に渡る時代ではない。消費者がテキスタイルデザイナーになれる時代たやってきた」 筆者が、インターネットの登場で感じてきた同じ発想を桐生の世界的布デザイナーも感じていたことに正直驚いた。インターネットの登場でいま、いろいろな業界で新しい模索が始まっている。ただ、新井氏にとって、コンピューターもインターネットも創作のツールでしかない点にも注目しておく必要がある。「手わざの魂を知らずして、なんのハイテクノロジーか」というのが持論である。 新井氏の最近の作風の特徴は、世界各地から集めた民族衣装のデザインを基にした素材だ。オーストラリアの先住民族アボリジーニやアフリカのピグミーの衣装のデザインをスキャナーで読みとり、コンピューター加工してデザイン化した作品がいくつか展示されていた。その哲学は「自然と人工が共存している。言い換えれば手仕事とハイテクノロジーの共存。さらに言い換えれば古いものと新しいものの融合である」。 もう一つの目玉は、新素材だ。新井氏は3年前から、金属繊維を考案。ブリヂストン・メタルファが、ステンレス繊維を現実のものにした。1-2ミリほどのステンレス繊維は3400本もの極細のステンレス繊維を撚ったものだが、風合いはとても金属とはいえない。ステンレス繊維で織った衣装はこの夏、イギリスでシェークスピアの戯曲「マクベス」ですでに使われた。 新井氏いわく「黒人に肌に実によく映えるんです」 このステンレス繊維はしなやかさと不燃性が特徴だが、用途はまだ開発途上だ。しかし欧米ではすでに認知されているらしく、10日からニューヨークでティファニーとの商談があるそうだ。 織物を芸術に昇華させ、こんどはその芸術をふつうの消費者にまとわせようというのが、最近の新井氏の魂胆なのだ。今週、奈良を訪れる予定の読者はぜひ元興寺と近くの奈良町物語館を訪ねて欲しい。寺院と布がマッチしている姿を目にできると思う。 新井さんのホームページは http://www.kiryu.co.jp/arai/ |
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