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海を渡った日本語

1998年10月25日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄


あなたは目の読者です。

 1月24日、25日と「西太平洋で国際語になりかけた日本語」を書いた。戦前のかなり長い間、日本語が太平洋の島々で「国語」として使われていた「驚き」の歴史を振り返った。興味のある方は以下のホームページで読んでほしい。

 http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9801/980124.htm
 http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9801/980125.htm

 国境というものが今日ほど明確でなく、アジア・太平洋の多くの地域では国という概念すら希薄だった時代があり、そこに西欧列強が陣取り合戦を始め、やがて日本も陣地取りの仲間入りをするようになっていた。特に南洋群島は第一次大戦に日本が参戦した結果、国際連盟の委任統治領として苦もなく日本に転がり込んだ。

 ところが戦後の日本史は、そうした陣取り合戦の後の支配のあり方を植民地支配の一言で忘却のかなたにしまい込み、北海道、本州、四国、九州、沖縄に閉じこもった。言い悪いではなく、閉じこもった結果、戦後の日本人は世界が見えなくなった。

 ●歴史は「植民地支配」の一言で一方的に消し去れない
 日本人の行動範囲はそんなに狭かったわけではなく、植民地支配のずっと以前から民間レベルの接点があった。今のように企業戦士として海外勤務したのではなく、それこそ新天地を求めて雄飛したのだった。もちろん植民地として日本が支配した地域で悲惨な出来事も多かったが、日本人が残した足跡は、支配された側にとってはもちろん日本人側にとっても「植民地支配」の一言で一方的にすべてを消し去れる性格のものではない。

 そうしたなかに支配地域での日本語普及があった。学校では「国語」として教えられた。もちろん日本のためであった。日本語教育が、植民地支配のツールだったことは否定できないが、東南アジアで英語が普及しているのはイギリスによる植民地支配が長く続き、戦後は実質的にアメリカがその地位に取って代わった結果であるのと変わりはない。

 1月のコラムでは、25年にわたる日本語教育が西太平洋の島々で行われていた「驚き」を書いたが、最近、法政大学教授の川村湊氏による「海をわたった日本語」(青土社)という本を見つけた。表紙の写真がなんとも面白い。ハワイアンダンスで馴染みの葦の腰巻きを巻いた上半身はだかの子供たち10人とTシャツ姿の日本人の先生らしき男性が写っている。

 副題は「植民地の国語の時間」「幻の日本語共栄圏」とあるが、実はタイトルも副題も内容と大分ずれがある。南洋群島、台湾、シンガポール、フィリピン、ビルマ、朝鮮、満州、北海道・樺太で行われた日本語教育の実態を、当時、植民地で日本語教育にたずさわった作家らの言動と過去の資料をもとに日本語教育の流れを追った評論である。

 川村氏の視点は二つある。一つは日本語が国語として植民地に強要されたという視点。もうひとつは戦後活躍した著名な作家の多くが植民地で「日本語=国語=日本の精神」といった皇国史観のお先棒を担いでいたという見方である。後者については、まったく同感である。著名な作家たちだけでなく、多くの学者、評論家、マスコミが敗戦を期して即席「民主主義者」に変貌したことは歴史的事実である。

 ●ヤップからオロチョンまで日本語を教育した国家
 だが、たとえ日本語教育がたとえ植民地化の手段だったとしても、こんな広範囲地域で日本語が教えられていた事実は驚きだった。北の樺太ではアイヌだけでなく「ギリヤーク」や「オロチョン」といった少数民族がいて彼らにも日本語教育がなされていた。南洋群島での日本語教育の事実は知っていたものの、ほとんどはだか同然のこどもたちの授業風景写真を突きつけられると新たな驚きとならざるをえない。

 アイヌは「土人」と表記され、南洋群島の住民もまた「土人」と呼ばれた。一方で「日本人」と教え込まれ疑わなかった「朝鮮人」や「台湾人」も少なからずいた。川村教授はそうした事態を次のように結論付けている。

 大東亜共栄圏の共通語として日本語を海外に進出させようとする日本語官僚たちは、軍事力を背景に植民地台湾、朝鮮、南洋群島はもとより、満州国、蒙疆地域、中国占領地、そして東南アジアと太平洋の諸島へと日本語を進出させようとした。しかし、海を渡っていった「日本語」が軍事力という現実の背景がなくなると、瞬く間に消え失せてしまったことを、私たちは戦前から戦後への変動の過程で見てきたのである(もちろん、植民地として50年あるいは35年のキャリアを数える台湾、朝鮮、南洋群島などでは「日本語」は、特殊な世代的な文化として生き残っている面もある。だが、それは陸封魚のようなものであって、新たな進化や進展の期待できないものであり、それは本質的に言語としての生命力を失っている)。
 だが、日本人が残してきたものもある。柳田国男の弟で海軍軍人だった松岡静雄氏は、1914年10月7日、ドイツ領のミクロネシアのボナペ島に上陸し、初代のバナペ守備隊長となったが、海軍大佐で軍人を辞め、学者として10冊におよぶ南洋群島関係の著作を残した。

 「太平洋民族誌」「ミクロネシア民族誌」「チャモロ語の研究」「中央カロリン語の研究」「マーシャル語の研究」「パラオ語の研究「ボナペ語の研究」「ヤップ語の研究」などミクロネシアの言語研究書を相次いで刊行、南洋研究のパイオニアとなった。以後、太平洋諸島を本格的に研究した戦後の学者は聞いたことがない。

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