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パレスチナのサブリーンとの心の出会い

1998年10月14日(水)
萬晩報通信員 松島 弘


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 10年ほど前、友人たちとアラブ音楽の演奏を始めた。その中に岡田さんがいた。カーヌーンという琴のような楽器を担当していた。シリアのダマスカスに2年もいたことがあり、アラブ世界にも詳しかった。日本にアラブ音楽を紹介しようと、いろいろな曲を編集したテープを作った。純粋な民族音楽ではなく、アラブのコンテンポラリーなシンガーソングライターのものを多く入れていた。

 ●被占領地パレスチナのアーティスト
 あるとき、岡田さんが「サーブリーン」というグループのテープをみつけて来た。伝統的アラブ音楽と比べると明らかにポップで、新しいさがあった。どちらかと言うとブリティッシュ・フォークのようなみずみずしいアコースティック感にあふれ、懐かしささえ感じさせた。ウードやカーヌーンなどのアラブ楽器を使い、澄んだ声の女性ヴォーカルはとてもうまい。ことばはもちろんアラブ語。

 「どこの国のアーティストなんだろう?」最初はそれすら分からなかったが、やがて彼らはパレスチナの、それもイスラエルの被占領地である東エルサレムのグループであることが分かった。アラブ諸国ではパリでデビューするアーティストが多い。レコーディングからCDやテープの発売までの流通が整備されていない国が多いからだ。そんなアラブ世界で最も音楽活動が難しそうな被占領地パレスチナにみずみずしい感性を持ったアーティストがいたことが驚きだった。

 私の中で、ニュースの戦争報道でのイメージしかなかったパレスチナが、僕らと同じく音楽を奏で楽しむ奴らがいるパレスチナになってくる。1本のテープから彼らがどういう日々を過ごして、どんな音楽を聴いているのだろうなどということを想像しながら、外国のとある街角の輪郭が浮かび上がってきた。

 岡田さんは、サーブリーンの「望みについて」を演奏しようと提案した。やってみると難しい。ヴォーカルは岡田さん。サーブリーンたちと比べると数段へたくそな「望みについて」がやっと演奏できた。この曲はずっと僕らのレパートリーになったが、演奏はその後もあまりうまくはならなかった。

 ●チンドン屋に弟子入りしてサックスを習った篠田昌巳
 篠田昌巳というサックス奏者がいた。80年代前半に現れて、当初はフリージャズ的な強烈なアドリブ演奏で話題になった。彼の懐深い音楽性は、みんなにすぐ知れるところとなり、シンガーソングライターやら個性派グループから共演を申し込まれ、どのグループでも絶妙な味を出していた。

 サックス奏者篠田昌巳を最も有名にしたのは、本当のチンドン屋に弟子入りしてチンドン屋のサックスを習い、街頭のチンドン行列でも演奏したことだろう。チンドン屋の音楽を「研究」ではなく「実践」したミュージシャンがかつていただろうか。そこらが篠田自身のドラマであると同時に、それに驚く我々もがその時点でドラマに巻き込まれている。ヤボな評論はする気はない。「東京チンドン」というCDを残してくれたことは評価したい。

 1991年、私は沖縄のネーネーズのマネージャーをやっていた。東京のオムニバス・ライブへの出演のためのリハーサルの時、スタッフから「どうしてもサックスが欲しいなあ。篠田さんにお願いできないかな」という声があがった。

 その足で、私は篠田氏のコンサート会場に駆けつけ、楽屋で「ぜひとも一緒に出演お願いできませんでしょうか」と頼み込んだ。篠田氏は満面の笑みで「光栄です。でも今はとてもいそがしいのです。ネーネーズさんとやるなら、ちゃんとやりたいと思うのです」と答えた。なぜかそこはかとない哀しみをたたえた、穏やかな笑みだった。

 結局篠田氏は不参加ながら、ネーネーズは無事コンサートを終えた。ネーネーズのマネージャーを降りた後も、篠田氏に何度か会ったり、彼の演奏を間近で見る機会にも恵まれ、篠田氏の音楽のありようが、少しずつ分かってきた。

 彼は果てしなくやさしい人だった。やさしい人は、他人の喜怒哀楽を受けとめてしまう。受けとめた人には分かっている。人の喜びの骨格には「哀しみ」が入っていることを。この「哀しみ」は、遠い地平線を見つめたときの、胸に風が流れるような気持ちとつながっている。彼のサックスの音色は、「やさしくて、力強い人」ならではの「哀しみ」をたたえている。彼の出す音は同時に風なのだ。風がもたらす「なにがしか」は、音楽を豊かにするだけでなく、その場の空気も豊かにした。

 ●ロックからアラブに根差した音楽へ
 話はサーブリーンに戻る。1992年4月、岡田さんは東エルサレムの地に立っていた。サーブリーンの日本招聘が目的だった。もとは映画監督ミッシェル・クレイフィ氏の作品上映会だけの企画だったが、クレイフィ監督の作品『石の賛美歌』の音楽を担当しているサーブリーンも呼んでしまおうと、映画とコンサートでパレスチナの今を伝える企画にふくらんだ。

 サーブリーンは、岡田さんたちを大喜びで迎えた。「遠い日本から、自分たちをアーティストと知って、訪ねて来る人があるなんて」と彼らは思ったろうか。彼らは、借りたアパートに、パレスチナで唯一のレコーディング・スタジオを建設中だった。そこは彼らの発信基地になるばかりでなく、子供たちへの音楽教育の場にもなるのであった。

 サーブリーンは、世界の多くの若者と同じく、英米のポップスやロックにあこがれて育った。エレキ・ギターでレッド・ツェッペリンのコピーなどもしたことがあった。いつしか自分たちの地(血)に根差した音楽を志すようになり、模索の末、伝統的なアラブ音楽とはスタイルを異にしながらも、自分達にしっくりくるオリジナリティにあふれる音楽を生み出したのだ。

 彼らは、いろいろな意味を込めて自らの音楽を「アラビック・ブルース」と呼んでいる。と言葉にすると重々しいが、音楽産業もなく、メディアも発掘してくれない地で、とにかく自分たちの信じる音楽をやり続けている。

 ●コンサート直前のハプニング
 岡田さんは帰ってから大忙しであった。コンサート会場の手配、チケットの手配、チラシの制作、取材の要請、プロモーターとの折衝。いくらでもやることがあった。来日にあわせてサブリーンとして最初のCDをリリースする話も進行した。もちろんミッシェル・クレイフィ監督の来日と上映会場の手配も同時進行だ。

 12月のコンサート&上映会は刻一刻と近づいていた。タイトルも「豊穣な記憶−パレスチナ・インティファーダ世代の音と映像」と決まった。会場は、京都は京大西部講堂、東京は渋谷ジァンジァンの上にある山手教会に決まった。京都では日本のバンドとのジョイント・ライブとなり、なんと東京のコンサートにはオープニング・アクトに篠田氏率いるコンポステラが決まったのである!

 私も東京コンサートを心待ちにした。ところが、どうゆう運命のいたずらか、つまらぬ事で右足首を骨折してしまい、当日会場に足を運ぶことができなかった。コンサート当日の「素晴らしきこと」と「悲しきこと」を岡田さんらから聞くことになった。

 悲しき事から先に書いてしまおう。東京のコンサートのほんの数日前、オープニング・アクトの篠田氏が、信じられないことに急死してしまったのだ!篠田氏は心臓をわずらっていたが、死の前日まで篠田氏は元気で、誕生日のその日、恋人とディズニーランドに行っていたのだそうだ。そこに突然来た死。

 私は彼の葬儀も終わってから彼の死を知った。しばし部屋で茫然とした。彼とそんなに多くの話をしたわけでも、多くの時間を過ごしたわけでもないのに、この果てしない寂しさは何だったのだろう。彼はつねに控え目にさりげなく僕らのそばにいて、豊かななにものかを与えていてくれたのだ。その彼がいなくなって初めて気付く、あまりにも大きな欠如感!多くの彼を知る人が、同じ思いをしたはずだ。

 ●そして、ついにサブリーンがやってきた
 突然のオープニング・アクトのアーティストの死に、サーブリーンはこう語った。

 「被占領地に住む僕らは、突然友人を死で失うことがたびたびあった。シノダに会うのは楽しみにしていた。アーティスト シノダに最大級の敬意を払いたい」

 さて、サーブリーンのコンサートは予想をはるかに上回るすばらしさだった。私は現場に居合わせていないので、岡田さんの文章をそのまま抜き書きさせてもらう。

 『そして1992年12月4日、ついにサーブリーンがやって来た。個人的にはそれまでの準備でヨレヨレになった状態で、彼らを出迎えた。「ナリタ」の地下で都心に向かう電車を待ちながら、できたばかりのCDを渡した。サーブリーンたちは、とても喜んで受け取ってくれた。「気にいってもらえた」と思ったとたん、そのプラット・フォームで僕の緊張の糸は、多分切れた。頭のどこかで「もう、ぶっ倒れてもいいか」と思った。しかし、数日後、京都での初演に立ちあって京都大学・西部講堂に彼らの音がはじけた瞬間、「ぶっ倒れないでいて良かった」と心底思ったことを、今でも鮮明に覚えている。』
 コンサートは大成功した。岡田さんは、サーブリーンのステージに圧倒された。家で寝ていて、ただ悔しいだけだったが、私にとっても忘れがたいコンサートであった。

 被占領地で、僕らと同じく音楽を愛するサーブリーンたち。風のようなサックスの音色を僕らの耳に残してくれた篠田氏。出会うべき2つのアーティストは現実には出会わなかったが、私の頭の中では出会っている。人生には、喜怒哀楽のどの感情にも属さない不思議な思いがよぎる事がある。何か日々の暮しとは違うところに流れる大きなものからのメッセージであるようなのだが、悲しいかな、言葉としては聴きとれない。だが、このコンサートに携わった多くの人は、確かにこのメッセージを心で聴き取ったような気がするのだ。

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