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9カ月で読者6500人の読者を獲得した萬晩報

1998年10月09日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄


あなたは目の読者です。

 今日は萬晩報を始めて9カ月目の記念日に当たる。9カ月の軌跡と少々自慢話を聞いてもらいたい。

 1998年1月9日、インターネットで「萬晩報」(よろずばんぽう)という名のコラムを発表し始めて9カ月が経過した。経済、政治、環境など日本が抱える構造問題にメスを入れてきた。たった20人への配信から始まったこの萬晩報の読者は10月8日には6547人を数えた。経済記者として日本という社会の制度疲労をみつめてきて15年。新聞記事にできなかった文章がワープロにたくさん蓄積していて、なんとか発表の機会はないかと考えていた。1996年10月に上梓した「日本がアジアで敗れる日」(文藝春秋社)の続編の構想もあった。

 だが、始まった実際の経緯は単純である。今年の正月に四国新聞の論説委員をしている友人の明石安哲氏を訪ねて、コラムの質低下をなじった。

「あんたのコラムは最近は精彩がない。一向におもしろくないぜ」
「とにかく毎日書くということは大変なんや。それほどいうなら自分でやってみい」

 売り言葉に買いことばである。

「よっしゃ。やってやろうじゃないか」

 たんかを切ったその翌日から萬晩報が生まれた。

 遊びのつもりでつくったホームページはすでにあったから、内容を衣替えするだけですんだ。誰も知らないホームページに「発表」しているばかりでは反応もない。とりあえず友人のメールリストから選んで20人にコラムを送りつけた。送り先は少しずつ増やしたが、メールリストは50人分しかない。

 突然、毎日メールが届くようになった友人たちはとまどったに違いない。メールコラムの真意を知っているのは明石氏一人である。三日たつと明石氏から返信のメールが届くようになった。

「三日坊主かと思ったら意外とやるやん」
「おお、続々届く萬晩報。勉強するぞ!勉強するぞ!勉強するぞ!」
「明日は震災三周年。日本は何があっても反省せん国やなあ。寝ぼけ眼のコラムニスト」

 明石氏からのメールが「継続する驚き」から「内容に関する感想」に変わっていったのが嬉しかった。

 10日も経つと不思議なことに友人以外から「おもしろい」「目からうろこが落ちた」というメールが舞い込むようになった。とにかく100本を目標にコラムを書き続けた。1カ月後、読者は100人になっていた。100本のメールを送るのはけっこうな手間だったが、100人の読者を得たことに密かな誇りがあった。

 そこへ東大の最学院に学んでいるという一人の読者から「まぐまぐ」という無料で配信してくれるサイトがある。毎日の配信作業は大変でしょうから利用するといいですよ」と親切な助言があった。

 半信半疑ながらさっそく「まぐまぐ」に登録した。翌日メールボックスを開くと、なんと100通ものメールが届いていた。「なんだ、これは」と驚くと同時に天にも昇る気分になった。一夜にして読者が倍増したのだから当然だ。

 しかし、このメールコラムがマイクロソフトのサイトの一つであるMNSニューズ&ジャーナル編集者である田中宇(さかい)氏の目にとまらなかったらその後の萬晩報はない。この編集者は共同通信社を退社した経済部の後輩だった。「世界を見る目」というホームページを一年前から書いていてネット上でスカウトされるという奇異な体験をしていた。

 MNSニューズ&ジャーナルとしても無償でコラムを書いてくれる人材を捜していた矢先だったという。マイクロソフトのサイトに小生のコラムが掲載される度に萬晩報の読者数はうなぎ登りに増えていった。3月4日、考えもしなかった1000人という大台を超えた。目標の100本目のコラムを書き上げた4月17日に読者は2590人にも達していた。

100日間に書いたコラムは400字詰め原稿用紙に換算すると500枚を超えていた。それだけの分量を書いたという達成感もあったが、読者からは「もっと続けて欲しい」という要望が舞い込んでいて、果たして続けようか迷った。「萬晩報はもはや公器である。だから続ける義務がある」とのメールには「なるほど。公器か」と感心させられた。

 10日間ほど休んで「パート2」としていけるところまで続けることに決めた。何人かの読者とはメール交換するほどの中にもなっていた。東京の中小企業の元経営者の山名さんは毎日、感想を送ってくれたし、米国シリコンバレーに住む八木さんからは「一緒に日本を変えていきましょう」と励まされた。古巣の東京外大の中嶋嶺雄研究室では萬晩報を印字して回し読みしてくれた。学生時代の友人にも「あのときの伴くんですね」とメールをもらった。

 萬晩報には海外に住む日本人からの反響が多い。日本の情報に飢えている人たちが探し当ててくれたに違いない。モンゴル、ホンジュラス、ギニアといったところからメールが来れば返事を出さずにはいられない。とにかく内外から3000通を超えるメールが来ている。萬晩報を運営していて、この2年で世界の情報通信は一変していることに気付く。インターネットのお陰で文字通り、情報の国境はなくなった。それどころか萬晩報には最初から国境がなかった。

 6月に大阪で読者の会を開いたら、札幌、東京など遠隔地からも多くの参加があり、萬晩報の発行を支援する「萬傘会」(ばんさんかい)が発足した。9月から萬晩報はコラムを書いてくれる通信員を募集。70人を超える応募があった。経歴をみるとミーハーはほとんどいない。しかも3分の2が海外である。どれほどの情報が集まるのか不安はある。しかしながら、20人の友人向けにたった1人で始めたメールコラムが、すでにひとつのネットワークを形成しつつある。そんな手応えを感じている。

 すでに各地に住む通信員からのコラムの掲載も始まっている。その国、その土地にいなければ書けないコラムも多い。萬晩報の読者は、単なる「立ち読み」と違う。能動的読者といってもいい。「萬晩報のライターみなさん」というメールが最近届いた。そんなふうにコラムを読んでくれている読者がいることが嬉しい。

 萬晩報は、素人のライター集団だけに「誤報」もあるかもしれない。筆者が1人で書いていた時代に、「てにおは」「文字化け」はもちろん、内容の誤りも何回かあったが、数時間のうちに間違いを指摘するメールが舞い込むことになる。訂正とお詫びは迅速に行うことにしている。また、どこをどのように訂正したかも後で分かるように、訂正前のコラムのそのまま残しておくことにしている。これはニュースコラムとしてはけっこう斬新な試みではないかと思っている。

 忘れそうになっていた過去の友人との再開の橋渡しをしてくれたのも、国境を超えた人々との共感を育んでくれたのもインターネットだった。インターネットをよく知らない人が、顔の見えない交流を「おたく」だとかいって批判する向きがあるが、実際のインターネットの世界はそうではない。個人が社会に対して果たし得る領域がとてつもなく広がったというのが正直な印象だ。

 明治時代後半、土佐の黒岩涙香が東京で「萬朝報」を発刊し、瞬く間に発行部数が日本一になった。アジア主義者も社会主義者も包含した新しい日本を考える逸材も多く輩出した。萬晩報が近い将来そんなネットワークになるのではないかと夢見ている。こんな夢を抱いているのは筆者一人ではない。インターネットのお陰で同様のネットワークが各地に生まれているはずだ。二一世紀を待たずして日本にも大きな地殻変動が訪れることは間違いない。(霞山会の月刊誌「東亜」10月号に掲載されたコラムに加筆しました)

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