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杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨

1998年08月14日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄


 8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思いを想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54年間、異境で眠り続けているからだ。

 チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ドイツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。

 インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落

 第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ地方に行ってインド国民軍(Indian National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、インド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもいい。

 第二次大戦の緒戦、マレー半島のジャングルで「F」のマークの腕章を付けた一群の日本人とインド人の姿があった。F機関といった。軍服はきているものの火器は携帯しなかった。機関長、藤原少佐の主義だった。彼らの目的は、開戦と同時にマレーのジャングル奥深く潜行、英印軍内のインド将兵を寝返らせることだった。

 英印軍が火力と兵力で圧倒していたにもかかわらず、日本のマレー進行作戦が電撃的に成功したのは、ひとえに英印軍内インド将兵が次々と投降したからである。英国から見ればインド人中心の部隊編成だったことが敗因である。ここのところを間違えてはいけない。婉曲にいえば、マレー作戦はインド人将兵の勝利だった。

 1942年2月15日のシンガポール陥落後、投降したインド人将兵は5万にも上っていた。10人足らずのF機関がたった2カ月でインド人将兵の心をたくみつかんだ。戦争用語でいえば「謀略」に成功したことになる。F機関は彼らに「インド独立」を約束した。参謀本部はまったく違う思惑を持っていたが、インド人将兵は現場レベルの約束を信じた。それまで大英帝国を守る忠実な番犬だった英印軍は「インド国民軍」に再編成された。

 インドにはガンジーやネルーが20年以上にわたって反英闘争を続けていたが、ついに軍事組織を持つにいたらなかった。東南アジア在住100万人のインド人は、逆にインド国民軍の創設を積極的に協力、多くの私財を提供した。

 インド国民軍裁判が英国に迫ったインド放棄

 モハン・シン大佐がその再編成の役割を担った。インド国民軍創設の目的はただひとつ、「インド独立」だけだった。英印軍による180度の転身だった。1年後、ベルリンからスバス・チャンドラ・ボースを招いてインド国民軍はさらにインド解放を目指す実践部隊に生まれ変わる。

 彼らの合い言葉は「チェロ・デリー」(デリーへ)だった。米英はインド国民軍を日本軍の傀儡とみた。インパール作戦は前線で指揮した牟田口廉也中将の発案でインドから重慶への援蒋ルートを断ち切るのが目的だったが、ボースの念頭にはインド独立しかなかった。

 戦後、英国政府が真っ先にしたことはインド国民軍将兵を「反逆罪」で裁くことだった。デリーのレッド・フォートがその法廷となった。戦争中はボースに冷淡だったインド国民会議派は、インド国民軍を愛国者として迎え、デサイ博士を筆頭とする弁護団をレッド・フォートに送り込んだ。弁護団は「隷属される民族は戦う権利がある」という主張を貫いた。

 この動きに全インドがハイタル(ゼネスト)で応えた。ボンベイ(現ムンバイ)にあった英印海軍の艦船は一斉にボンベイ市内に大砲の筒を向けて反英の意志を露わにした。全インドが初めて英国に牙をむき、レッド・フォートを包囲した。反英闘争はかつてない高まりをみせ、裁判を有利に導いた。起訴されたインド国民軍将兵は有罪となったものの、「刑の無期執行停止」を勝ち取った。英国は当初、戦後もインド植民地支配を続けるつもりだったが、インド国民軍裁判でインド放棄を決断した。1946年1月のことである。

 ここらの経緯は日本の教科書には一切書かれていない。カルカッタやパンジャブ地方の人々には「チャンドラ・ボースは死してインド独立を勝ち取った」という思いがある。カルカッタはボースの故郷であり、パンジャブ地方はインド国民軍将兵を多く生んだシーク族の故郷である。


 チャンドラ・ボースの遺骨が蓮光寺からインドに移されない経緯は複雑だ。戦後、ボースの遺骨を守り続けた林正夫氏の手記に譲りたい。林氏の手記は明日配信します。
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