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好況時のリストラで基礎体力を育んだ東レ

1998年06月22日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄

 久しぶりに東レの前田勝之助さんに会った。10年社長在任の後、昨年から会長となり、経団連の副会長になった。経団連の会長や副会長の年齢が高すぎることを暗に批判したら、「そうだ、自分のような年寄りが若い方なのだから」と機先を制され、矛先が鈍ったが、経営は人だというかなり前の感慨を思い出した。

 1993年正月明け早々、富士通の関沢義社長(当時)が日本橋の東レ本社を訪れ、前田勝之助社長に「不況の素人が不況の玄人に学びに来ました」とあいさつした。電機や自動車など1980年代の日本経済を引っ張ってきたハイテク産業が初めての減量経営に直面し、恥を忍んで合繊企業の門をたたいたのだ。

 合繊業界が好業績を上げていたからではない。二度のオイルショック、そして円高不況と度重なる苦境をくぐりぬけ、これまで生き抜いてきたノウハウの伝授をたまわりにきたのだ。1980年代に時代を謳歌したハイテク産業が東レの門をたたいたのにはそれなりの理由があった。

 まず1990年代初めの不況でも収益ダウンを最小限にとどめており、なかでも東レは減益ながらも1993年3月期決算で10年ぶりに繊維業界で収益トップに躍り出ることが確実視されていたからだ。

 みんなが大量採用に走った時、東レは人員圧縮した

 東レはバブル時代、他産業が大量採用に走る間に従業員の大幅圧縮を実現した。1万3000人だった社員は1万人に、しかも平均年齢を1、2歳下げていた。前田社長は人員削減に当たって、当時は当たり前だった出向という方式を採らなかった。

 対照的に、大手鉄鋼の人員削減は子会社や関連会社への出向で人員削減の帳尻を合わせた。いずれ好景気になれば本社に戻せると考えていた。あとになって人事担当の宮崎副社長(当時)は「出向にしたことが後々の人件費補てんという重荷になった」と述懐した。

 大手鉄鋼の1992年のの出向者への人件費補てん額は新日鐵で年間500億円、神戸製鋼所400億円、住友金属鉱業300億円と巨額に膨れ上がっていた。当時の経常利益をはるかに上回る金額だった。

 前田社長が重視したのは「在籍者を減らす」ことだった。東レに籍を置いたままの減量では本当のリストラにならない。1987年に前田氏が社長になる前の東レでは減量といえば「出向」が常識だった。ほかの日本の会社と変わらなかった。

 珍しかった45歳からの早期退職制度

 前田方式が画期的だったのは、早期退職制度の拡充の方法だった。今では当たり前だが、早期退職金割り増し制度の対象年齢を45歳まで下げた。レイオフでも勧奨退職でもない、退職しやすい環境をつくる当時としては珍しかった制度だった。。

 50歳代では難しいが、40歳代なかばからならば再スタートが切れる。その結果、系列の転職斡旋会社などを通じて多くの社員が外資系企業や地方の優良企業にトラバーユした。もちろん東レにとって有為の人材も会社を去った。東レの一課長から外資系企業の副社長におさまった例もあった。当時はバブルの最中だったから、東レの人材は引く手あまただった。

 おかげで東レはいまも景気の厳しい浮沈からあまり大きな影響を受けない経営体質となっている。もちろん、東レにとっての幸いは不況のたびに経営を支える新製品が登場してきたことだった。オイルショックのときは人工皮革のエクセーヌに期待が集まり、1980年代の円高不況では炭素繊維が注目された。1990年代にはインターフェロンが柱に育っていた。

 前田氏は「次に向けて技術開発の芽が育っているかどうかが企業の実力だ」と言ってきたが、本当は好況時の経営モラル維持が不況時の経営を支える最大の要素なのではないかと思う。東レは少なくとも10年間、リストラを必要としてこなかった。

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