構造問題の保守本流-日本の鉄鋼業界1998年03月17日(火)萬晩報主宰 伴武澄 | |
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●輸入鋼材を取り扱わない暗黙の合意 世界的に批判される日本企業の横並び体質は1950年代に鉄鋼業で芽生えた。独禁法の導入以降、企業同士で生産量や価格を調整することが禁止された。だが、戦後日本では通産省による「指導」という形で生き延びた。「需要のパイが年々膨れる成長期にはある程度シェアを守りながら、それぞれが規模拡大する発展形態は産業の秩序を守る上で重要だった」というのが政府や鉄鋼側の言い分である。 通産省が四半期ごとに発表する「需給見通し」は、大手鉄鋼メーカーへの事実上の「生産調整指導」である。業界がやれば独禁法違反だが、通産省がやれば問題ない。だが3カ月ごとの発表風景はどうも通産省の影が薄い。発表場所は東京・大手町の経団連会館内の日本鉄鋼連盟の会議室だ。発表者は通産省の鉄鋼業務課長だが、その脇に鉄鋼連盟の幹部が居並ぶのだ。 官製カルテルは流通にも及ぶ。三菱商事や三井物産など大手商社は成長の過程で自動車、家電などそれぞれの分野向けの鋼材流通シェアを確定していった。流通シェア確保は何よりも鋼材価格の安定をもたらした。秩序を重んじる鉄鋼業界にとってシェアの確定は願ってもないことだった。だから鉄鋼メーカーは鋼材を生産するだけで流通の大部分を商社に依存してきた。 商社にとって3%の流通マージンはおいしかった。いまでも収益減の柱は鉄鋼流通である。産業界からみれば、鋼材を安定的な供給を受ける半面、「競争的価格」を失った。大手商社が一定の販売シェアを得たのは、鉄鋼メーカーとの「輸入鋼材を扱わない」という暗黙の合意の見返りにほかならない。
●廃墟から世界トップの1億トン生産へ こうした中で政府は鉄鋼と石炭に「傾斜生産方式」を導入、重点的にヒトとカネを注ぎ込んだ。重化学工業の復活が政府の大きな課題だった。日本の製鉄業は八幡製鉄、富士製鉄、川崎製鉄、神戸製鋼所、日本鋼管(NKK)、住友金属工業らが担ったが、連合軍による財閥解体の結果、企業は競争力を削がれた。 成長を支えたのは政府資金と政府による需給調整である。日本開発銀行が発足、資金面での傾斜配分が始まり、通産省が四半期だとに発表する需給見通しが半ば、官製の"カルテル役"を果たした。日本の鉄鋼業の出発は明治時代の官製八幡製鉄所だ。いまでも利潤追求よりも協調を大切にする「お役所体質」を色濃く残している。 年産300万トンまで落ち込んだ鉄鋼生産は、公共事業による政府買上げや1950年代に再開した造船業など鋼材を多用する産業の復興で倍々ゲームで成長した。欧米への輸出がさらに生産意欲をかきたてた。1960年代に英国、ドイツの生産量を追い抜き、1970年代には年産一億トンを達成、米国を抜いて生産量、技術力ともに世界のトップに立った。再建に取り組んでたった20数年である。
●ひびが入っても国産品愛用 1950年代の日本の自動車業界は「日本の薄板ではプレス工程でひびが入る」という苦しみに悩まされた。「米国産の薄板は簡単にプレスできるのに、なぜ日本の薄板ではできないのか」という恨み節も聞かれたが、不思議なことに日本の自動車業界は米国から鋼材を輸入しようとはしなかった。鉄鋼業界は自動車ボディーの微妙な曲線にも耐えうる薄板の開発に取り組んでいた。政府から「国産鋼材使用」の圧力もあったが、がまんを重ね一緒に成長する道を選んだのである。日本の産業界の相互扶助が世界に冠たる日本の鋼材を生んだともいえる。 すべてが順風満帆だったわけではない。1960年代には高炉建設ラッシュが訪れた。川崎製鉄が通産省の指導に反して千葉製鉄所を建設するときには、当時の 一万田尚豊日銀総裁に「ペンペン草を生やしてやる」とまで言わせた。住友金属工業も和歌山に大規模な生産を開始した。当然、資金不足に陥ったが、米国の金融機関が日本の鉄鋼業界の将来性を買って融資に応じた。ここらの事情は年01月20日付萬晩報(火) 「住金事件『日向方斉・私の履歴書』より 」で書いた。
●構造問題と解くカギは鉄鋼業界にあり 日本の戦後産業史を見る上で鉄鋼業界の果たしてきた役割は計り知れない。成長や発展の秘訣、あるいは日本の構造問題を解くカギはほとんどこの業界の中にあるといっても過言ではない。 【訂正】川崎製鉄に「ペンペン草を早してやる」といったのは日銀総裁の一万田氏でした。訂正します(3月20日)。 |
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