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西太平洋の日本の交易拠点だったパラオ

1998年1月31日(土)
共同通信社経済部 伴武澄

 戦前の日本人は、マリアナ諸島を中心とした西太平洋の島々を総称して「南洋群島」を呼んだ。日本が中心としたのはパラオとサイパンだった。特にパラオは日本の真南に当たり、ニューギニアとのちょうど中間点に位置する。フィリピン南部やいまの東部インドネシアにあたるスラウェシなどへの航路の格好の中継地となった。これらの地域の重要性はいまの日本人にも米国人にも分からない。チビクロサンボの漫画に出てくる「椰子の木のまわりをぐるぐる回っているうちにトラがバターになる」風景は、南洋群島が舞台なのだ。主人公の黒人はアフリカだが、トラはアフリカにはいない。東南アジアかインドである。つじつまの合わない設定だが、当時の子供たちの人気者になったのは、日本による長年の南洋群島支配が時代背景としてあったはずだ。

 ●戦前の南洋群島にいた日本人3万人

 スラウェシにはマカッサルという海洋マレー人たちの交易の一大拠点があり、その東のアンボン島はオランダが香料貿易の中心とした土地である。ここはシロチョウガイの宝庫でもある。プラスチックが発明される前の高級ボタンはシロチョウガイで作られ、戦前は日本がその貿易をほぼ独占していた。日本人は西洋人がだれも手を付けていなかったミンダナオのダバオにも着目、麻のプランテーションを展開した。

 名著「マナコの眼」(筑摩書房)を著した故鶴見良行氏によると、1920年に5万2000人だった南洋群島の人口は1933年には8万1000人にまで増えたという。56%の増加である。増加分の2万9000人のうち2万7000人が外国人、つまり朝鮮人を含む日本人だった。あくまで増加分の話である。それまでに進出していた日本人は前者の5万2000人に含まれているのである。

 いまグアムを中心に数十万人の日本人観光客が、この地域を訪れているが航空路もない貧しい時代に13年間に2万数千人の日本人が南洋群島に押し掛けていたのだから、すざましいと言わざるを得ない。ちなみに現在、ニューヨークやロンドン、香港など世界の主要都市に在住する日本人はそれぞれ2万人程度である。当時の南洋群島の人口の半数近くが日本人だったと考えれば分かりやすい。

 台湾経営の最大の難関はマラリアや特有の風土病との闘いだった。多くの歴史書に、19世紀の終わりまで中国人が台湾を見向きもしなかった理由のひとつにこの風土病があったと記されている。国土の狭かった日本人は明治以降、農地や漁場を求めて南下した。西洋人が恐れた風土病もものともしなかった。当時は「殖産振興」といった。「侵略」などという言葉で片づければそれまでだが、当時の日本人のバイタリティーはどこからきたのか考えると不思議である。

 ●サトウキビ栽培とシロチョウガイ採取
 南洋群島に日本人が進出したのは1920年に、国際連盟の委託統治領になったのがきっかけではない。1916年には「西村拓殖会社」がすでにサトウキビ農園を開設していた。台湾で精糖会社が成功して原料調達が南洋群島にも求められた。渋沢栄一の娘婿の会社だった「南洋殖産」もまた同時期にサトウキビ農園のため進出した。現地で足らなかった労働者は朝鮮や沖縄から連れて来られた。いや貧しさゆえ出稼ぎに出た。南洋殖産はダバオで麻栽培も展開していた。戦前ダバオはアジアで最大の日本人コロニーだったという。多くの日本人経営者が麻の栽培で資産を形成した。

 それよりも前から南洋群島に進出したのは実は、シロチョウガイとナマコ漁のためだった。どういうわけか沖縄の糸満と紀伊の漁民が多かった。彼らは、パラオを基地として、インドネシアのスラウェシからオーストラリア北部のアラフラ海の海域で活動した。史書によると、紀伊の漁民は幕末の時期からすでにオーストラリアでシロチョウガイを採取し始めていたというから驚きである。  1936年の世界のシロチョウガイ漁の漁船の3分の1の86隻がパラオを基地としていたという記録もある。1920年からは日本からパラオへの航路は「国内航路」となったから、渡航もたやすくなったに違いない。

 男の後を追ったのは女である。1930年代初頭は、パラオのシロチョウガイについて”アラフラ景気”などという言葉も生まれた。鶴見氏の引用によれば、当時の雑誌に「ダイバーに非れば料亭の門戸を潜る資格はない」「ダイバーが上陸した。カフェー、料理もたちまちダイバーに全娯楽機関を占領されてしまう」「彼らが休漁期にパラオで歓楽地帯で費消する額は30万円と云わる。この額は漁獲高の約一割五分に相当す」と書かれた。歓楽街には相当数のからゆきさんがいたはずである。

 政府は学校を建て、日本語を教えた。そして企業が農園を展開し、多くの日本人が住み着いた。彼らが島の生活に溶け込んでいただろうことは、戦後、朝鮮半島や中国で起きたような反日感情が幸いにも残っていないことから想像できる。そんな日本時代の南洋群島の生活や民俗は、戦後の50年にわたる国支配でほとんど忘れ去られようとしている。

1998年01月25日(日) 西太平洋で国際語になりかけた日本語(続)
1998年01月24日(土) 西太平洋で国際語になりかけた日本語

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