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西太平洋で国際語になりかけた日本語(続)

1998年1月25日(日)
共同通信社経済部 伴武澄

 ●説教は島民には分からない英語だった

 前回では、タイトル倒れの内容だったかもしれない。最近出版されたヘレン・ミラーズ著「アメリカの鏡・日本」(Mirror for Americans:JAPAN)に沿って、終戦直後の西太平洋諸島の生活を再現する。

 アジアや日本の専門家として米陸軍やシカゴ大学で教鞭をとっていたヘレン・ミラーズ女史は1946年2月、GHQの労働局諮問委員会のメンバーの一人として来日した。1948年この本を著したが、日本語への翻訳にダグラス・マッカーサーが「占領が終わらなければ、日本人はこの本を日本語で読むことはできない」と書簡に書いた。

 当時の米国から日本への空路は太平洋の島伝いに飛行機を乗り継ぐものだった。カリフォルニアからまずハワイへ、そしてジョンストン島、マーシャル群島のクワジャリン環礁にやってくる。そこで見た光景をこう記している。

 「太陽が島を照りつけている。椰子の木は爆撃でぼろぼろになっている。私たちは教会へ行った。島民が百人ほど座っていた。最近ボストンからやってきた宣教師が改宗させたばかりという。説教は島民には分からない英語だった」

 「クワジャリンは、激しい戦闘の末、始めて私たちの支配下に入った日本領土である。わずか2年前、1944年1月、ミニッツ提督が軍政を敷いた。海兵隊の書いた記事によるとジャップと現地住民の関係はまずくはなかった。怨みは買っていたが、全体として住民の扱いはよかった。子供たちを8時から11時まで学校へ行くことを義務づけた以外は、現地の生活習慣に介入しようとはしなかった」

 いまからは到底、想像もつかないが、かつて日本人は太平洋のど真ん中にまで生活の場を求めて定住していた移住していったのはハワイやカリフォルニアだけではなかった。第一次大戦で戦勝国の権利として西太平洋の島々を日本が領有したからではない。そのずっと以前、スペイン人が領有していた19世紀から日本人は島伝いに生活の場を太平洋に広げていたのである。

 クワジャリンの子供たちは学校で何語で勉強していたのか興味ある。英語やドイツ語であろうはずがない。戦後、この地を訪れた米国人が日本時代の”義務教育”に特に言及しているくらいだから、日本語だったはずだ。日本支配が24年間続いた土地である。

 ●日本人は商人や漁師としてやってきた

 ミラーズ女史はさらに、マリアナ諸島のグアムへ飛ぶ。原住民のチャモロ族について、16世紀以来、スペイン、米国、日本、そして米国と「4回も外国の支配者を変えた」ことに言及する。島民は直接、戦争して負けたわけではない。他の土地での日欧米の戦争の結果で為政者が変わった。最初の近代戦争は1944年に経験する”米国からの反攻”である。

 日本人との関係について「19世紀の後半になると、日本人が商人や漁師としてやってくるようになった」と書いている。スペイン人は島の交易には興味がなかったが、日本人は島と島の交易、日本との貿易を発展させていった。米国がスペインからグアムを獲得した1899年当時、数百人の日本人が定住し、チャモロ人と結婚していた。島の貿易はほとんど日本とのもので日本船で行われていたらしい。

 グアムは米国にとって海軍の戦力的拠点としての地位は高かったが、貿易には関心がなかった。日本との貿易を閉め出す法律が次々とできて、1937年には実質的に対日貿易は閉ざされた状況になった。ミラーズ女史によれば、グアムはマリアナ諸島で最も大きな島で、開発次第では農業や漁業などこの地域の生活を支える力があったが、米国はそうはしなかった。

 グアム以外のマリアナの島々は日本がドイツから獲得してからある程度発達したとする。チャロモ人と結婚して定住した日本人は1938年には7万人に達した。いまでも10万人程度の人口規模である。当時は、人口の半分近くが日本人だった。半数が農民で残りが漁民だった日本とあまり生活様式がかわらなかったから、島の生活に障害はなかったようだ。日本領マリアナでは、日本人が砂糖産業を開発した。魚の養殖技術も持ってきたようだ。資源のなかった日本は小さな島といえども産業資源として貴重だったはずだ。

 ●敗戦で価値を失った日本語と日本円
 1945年にこのマリアナ間諸島を訪れた米国の人類学者であるジョン・エンプリーは戦後の島の移り変わりを次のように報告している。
 「20年にわたって日本の教育を受けてきた人々は、ある日突然、日本語と日本円が、英語と米ドルの前に価値を失ったことに気づいた。日本人と朝鮮人は、島で生まれ、現地人と結婚した日本人まで一人残らずいなくなり、経済活動に空白ができた。米国はこの地域の経済にそれほど関心を持っていないから、いままでの収入源のかなりが消えてしまった。サイパンとテニアンでは砂糖の店が消えた。アンガウルもリン鉱山は廃墟のまま放置された。コプラ(ヤシ油)集荷の船は出たり出なかったり。輸出先がないのだ。いまや島民は米軍施設での日雇いか、軍人相手の土産物屋しかない」

 ミラーズ女史もこんなことを考えながら島伝いに日本に近づいていった。

 台湾は1895年から50年、朝鮮半島は1910年の日韓併合から敗戦まで35年間の日本が支配した。樺太(サハリン)は1905年の日露講和からだから40年、それ以前は混住の地とされ、領有権はなかった。そう考えると西太平洋諸島の領有の~年は決して短い期間ではない。以前からの関心事ではあるが、戦後、海外領土からの帰国者は350万人を超えた。復員者は別にして多くは、戦争のずっと前から現地で生業を起こし、日本人町を形成して定着していたはずだ。なぜみんな帰ってきたのか。いやなぜ生活の基盤を奪われて帰国を強要されたのか不思議である。彼らが現地に残っていれば、日本語が現在の華僑の中国語のようにアジアや太平洋諸国でもっと広範囲に使われていたはずである。

 西太平洋での標準語だった日本語について語るつもりが、日本そのものになった。ただ55年前の雰囲気は伝えられたと思う。

 フィリピンにほど近いパラオには日本に関したもっとおもしろい話がある。来週末、報告する。




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