「松明は自分の手で」と題した、少々黄ばみが目立つ古い本を最近読んだ。本田宗一郎とともに世界のホンダの基礎を築いた藤沢武夫氏が退職後に自ら執筆した思いでの記である。
昭和48年の春。藤沢氏が「俺やめるよ」といった。 本田宗一郎は「うん、そうか。一人じゃないよ。俺もやめるよ」といった。 短いやりとりだが胸を熱くさせるシーンだ。事を成し遂げた男の清涼感を漂わせる。そして25年間ホンダを育て上げてきた社長と副社長のこの最後の会話ほど二人の友情の絆を示す言葉はない。
大阪の機械クラブに常駐していた時、本田技研工業の広報部の人にもらい、そのまま本棚に押し込んであった。 その後、何回か転居したが捨てられずにあった。代わりに外側が変色していた。
その黄ばみが歴史を感じさせた。ホンダとソニーは戦後の日本が生んだ数少ない世界ブランドである。筆者が1960年代を過ごした南アフリカ共和国では、少年同士の会話でも「お前はソニー持っているか」とか「ホンダに乗れるか」とか言っていた。ソニーはトランジタラジオの、そしてホンダはモーターバイクの代名詞だったのである。
ホンダの世界への挑戦は自転車に小さなエンジンをつける発想から始まった。作業服を着て油まみれでエンジンに向かう本田宗一郎はいつも新しいものに挑戦した。ホンダが世界的なモーターレースの頂点に立つにはそんなに時間はかからなかった。常勝チームの名前はしっかりと米国の若者の脳裏に刻み込まれた。ホンダが世界の若者にモーターバイク・ブームを巻き起こしたのである。
日本がまだ貧しかった時のことである。今では世界的な企業も多く生まれ、製造技術では世界の頂点にあると信じられているが、1960年代前半の日本は今の日本ではない。ちょうど今のアジア諸国のようだった。安く作ることが最大の売り物だった。そんなわけで日本製のクルマは故障続きだったし、松下といえども米国家電の下請け企業にすぎなかった。いわゆるOEMのはしりである。
本田宗一郎と藤沢武夫はそんな時代にすごいブランドを作った。今でいえば、マイクロソフトのビル・ゲイツである。二人はすごい会社を作ったが、驕りはなかった。人生の潮時を知り、「辞める」時までぴたりと呼吸を合わせた。思い起こせば当時の日本には、肩書きがなくとも男気を漂わせる日本人が身の回りにたくさんいた。自分自身で日本人に生まれた誇りを持つようになったのもそんな周りの日本人の影響だったような気がする。
80年代後半のバブル期やバブル崩壊後の経営者に、そんな日本人像を求めるのは無理なのだろうか。
最近の話である。昨年11月末、人材派遣会社パソナの南部靖之代表と「ストロベリーロード」の著者である石川好氏が神戸で「伝習塾」を結成した。毎月1回、南部氏が所有するクルーザー「Concherto」で塾が開催されている。南部さんは阪神大震災が起きてから神戸に移り住み、神戸復興に日夜、奮闘している。
「伝習塾」は、勝海舟が神戸に開いた海軍伝習所にあやかって命名した。石川好氏は塾頭だった坂本龍馬が瀬戸内海の船の中で「舟中八策」を練ったことを挙げて「ともに平成八策を考えよう」と提案している。この塾に集まるのは阪神地区の人々だけではない。九州からも北陸からもやって来る。おっさんもおばちゃんもいる。「金儲けだけではない価値観を求めて」というとほめすぎになる。 本田宗一郎が社長を辞めてもう25年が経つ。
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