アジア諸国は通貨について深刻に考えているに違いない。日本は1985年9月の1ドル=240円から1995年5月の同80円まで対ドルの価値が3倍に上がり、その後たった2年半で半分に下がった。歴史上こんなに乱高下を余儀なくされた通貨はない。にもかかわらずこの12年間、国民は真剣に通貨について考えて来なかった。
3倍の円高になっても輸入品の価格が破壊的に下がることはなかったし、この2年間の円安でもまだインフレになっていない。円高時に海外旅行が安くなるぐらいしか恩恵がなければ、仕方ないかもしれないが、日本人はそんな為替オンチの不思議な国民だ。
しかし、明治維新の黎明期はそうではなかった。新政府は徳川幕府が残した巨額の対外債務で苦しんだ。国家の為政者が徳川家から天皇に変わっても外国から見れば「日本は日本」なのである。明治政府と英国東洋銀行」(立脇和夫著、中公新書)を読むとそんな明治政府の苦労がよく分かる。そして通貨の持つ意味を考えさせられる。
●関税収入を担保に取られていた明治政府
日本が国立第一銀行を設立する10年も前から横浜には外銀が多く支店を構え、通貨まで発行していた。このことはあまり知られていない。そのなかでも約20年にもわたり帝国政府の造幣所設立や鉄道敷設に深く関与していたのが英国東洋銀行(オリエンタルバンク)であった。
明治政府の最初の対外交渉は、条約改正でもなんでもない。借金の付け替え交渉だった。幕府が建設した横須賀製鉄所の借款をフランスが求めてきた。借りたのはフランス政府ではない。ソシエテ・ジェネラル銀行である。
幕府が崩壊してフランス側は資産差し押さえに出ようとした。アジア諸国は同じ時期に、同じ手口で国を乗っ取られた。まさに契約不履行という民間の争いに国が出てくるのは現代においても同様である。直近の例では、米コダックが富士写真フィルムに対して「富士写真フィルムによる流通支配でコダック製品が日本市場から締め出されている」として訴えた。
明治政府が頼ったのが、オリエンタルバンク。というより当時の在日公使のパークスだ。政府は急きょ、オリエンタルバンクから50万ドルの巨額の借金をすることになった。しかし、利息は年15%、元金は2年据え置きの10年返済と厳しいものだった。政府は横浜港の関税収入を担保として差し入れた。英国側から要求されたとしたほうが正しい。外国に門戸を開いたばかりの明治政府に担保に差し出す資産らしいものはほかになかった。
15%の金利が高いか安いかは判断材料がない。しかし当時、ロンドンでの起債で7%前後が相場だったというからやはり、新興国に対する信用度は相当低かったとみるのが妥当といえそうだ。
明治政府が偉いと思うのはこの巨額の借金をきちんとしかも前倒しで返済していることである。アジア諸国のなかには返済の遅れで借金が雪だるま式に増えたり、そのまま関税収入を外国企業に乗っ取らたケースは枚挙にいとまがない。
●早期返済で植民地化を免れた日本
著者の立脇氏は、明治政府の「金融事始め」に対してオリエンタルバンクが親身になって支えてくれたという論旨で終始しているが、どうもそこのことろの認識が甘いような気がする。確かに結果的に明治政府が近代国家への脱皮に成功、西欧の植民地にならなかったからオリエンタルバンクの「協力」が大きくクローズアップされることになるが、逆にアジアの植民地化のプロセスは皆、現地政府へ親身な協力から始まったといっても過言でない。
西欧社会は契約社会だから、その契約通りに物事を進めたら問題は起きない。ちょっとした契約履行のミスにつけこまれ長い時間のなかで徐々に植民地化が進められたというのが歴史の実態なのだ。
「明治政府と英国東洋銀行」では、明治初期の日本で銀行券と手形や小切手の区別がつかない人が多かったというエピソードが紹介されている。当時の官僚の金融知識は相当低かったようだ。これも考えてみればそんなにおかしいことではない。現在は国の信用によって銀行券が発行されているが当時は日本に中央銀行すらなく、外銀が国内で堂々と紙幣(洋銀)を発行していた。銀行預金を担保に個人や商社が発行する手形や小切手と銀行券との違いはそんなになかったのかもしれない。
香港などではいまだに香港上海銀行、スタンダード・チャータード銀行、中國銀行の3つの商業銀行が銀行券を発行している。100年前の日本とそんなに違わない。現在の日本を基準にして考えるといろいろなことがおかしくみえてくるのかもしれない。現在の日本を絶対基準として歴史を判断してはいけない。
オリエンタルバンクは19世紀後半のアジアで最大の商業銀行だった。英国の当時の銀行の自己資本比率の高さには驚かされる。現在、BIS基準が8%で高すぎるなどという議論をしているが、19世紀の銀行の自己資本比率は20%とか30%とか現在とは較べようもない。そして不動産担保の融資が禁止されていた点もバブル経済の後始末に苦しむ日本の金融機関の状況からすれば特筆すべき事項なのかもしれない。オリエンタルバンクの場合、配当率は1863年になんと19%にも及んでいる。
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