本州の北のエゾ地を「北海道」と呼ぶようになったのはそう昔のことではない。明治以降、正式に日本の版図に加えることになり、新たな名称が必要になった。1869年(明治2年)、古来からある南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海道」だから「北海道」と呼ぶことに決めた。日本人にとって、それまではあの広大な地域を総称する呼称がなかったことは驚くに当たらない。
名付けの親は松浦武四郎である。江戸末期にエゾ地の探検家として名を馳せた。明治政府の役人としての最初の仕事が後世に「北海道」という名をのこしたのだから大変な名誉である。武四郎が選定した呼称に「日高見道」「北加伊道」「海北道」などがあったとされるが、このうち「北加伊道」が採用され、「加伊」(かい)が「海」に代わった。カイとはアイヌが自らの地を呼んだ呼称である。
古来、「北海道」はエゾ地とか、北州、十州島などと呼ばれていた。旧10国が置かれ、渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶり)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の地名はあった。室町時代以降、本州の商人がアイヌとの貿易のため移り住んだが、藩が置かれたのは江戸時代。ロシア人がエゾ地にやって来て日本に通商を求めるまでの歴史は数行で書くこともできる。あくまで日本人の関心の程度はそんな程度だったはずだ。
漠然とした概念では日本だったものの、箱館周辺の松前藩の外側は、中国風にいえば「化外の地」だったのである。アイヌが居住する地は征服するには自然が厳しく、江戸時代までの日本人にとって興味の対象であっても損得勘定がはたらく空間ではなかった。
当時、国境線がさだかでない「化外の地」は世界にいくらでもあった。
極東では樺太や千島列島、中国にとっての台湾も似たようなものであった。アラスカなどはロシア帝国が探検していったん獲得した版図を「化外の地」として米国に売却した話はだれもが知っていることであろう。いまさら、100年以上も前の話をしても仕方がないかもしれない。しかし、19世紀の帝国主義時代に突入する以前の世界の国境の概念には現在では考えられないほどの無邪気さがあった。
話を戻す。明治維新後、政府はエゾ地に新たな呼称を必要とした。新政府が、広大な未開拓地を新行政区に加えたからだ。正式に北海道とされたのは1869年(明治2年)である。
開拓のための役所を設置しようとしたとき、いい呼称がなかった。とにかく「北海道開拓使庁」という役所がこの年、設置された。そして旧佐賀鍋島藩主の鍋島直正(閑そう)が初代長官に就任した。
続いて1886年、政府直属の行政機関、北海道庁が置かれた。
驚くなかれ、北海道には開拓使庁は置かれたものの、実は知事がいなかった。それも戦後、地方自治法が施行されるまで、中央政府の長官が北海道を監督した。戦前の知事はいまのように選挙で選ばれることなく、政府が任命したから実体はそんなに変わるものではないが、どちらかといえば総督府が置かれた植民地の台湾や朝鮮と似たような地位に置かれ続けた。1948年、北海道はようやくほかの都府県並みの自治体となった。
長々と、「化外の地」について述べた。北海道が歴史的に他の日本の地域と違う扱いを受けてきたことを強調しておきたかったからだ。
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