日本にいると国家が分裂したり、くっついたりすることはいかにも理不尽なことのように聞こえるが、世界史はまさに民族の融合と離反の歴史だったはずだ。
一番最近の例では旧ユーゴスラビアからのセルビアはクロアチアの離脱がある。残されたボスニア・ヘルツェゴビナではセルビア人と回教徒が血で血を争う悲惨な戦いを繰り広げているが、クロアチアは統一ドイツがまっさきに承認、セルビアとともに独立国としての既成事実作りが進んだ。
バングラデシュ、シンガポールは分離独立国家
インドは1947七年、イギリスが統治を放棄するにあたり、パキスタンとセイロン(現スリランカ)に三分割され、1971年にはパキスタンから東部のバングラデシュが独立して結局、4つの“インド”に分かれることになった。インドはパキスタンの間に存在するカシミールの帰属はいまだに解決していない。スリランカでは支配民族のシンハリにタミール系が反発して武力闘争を展開している。
分離独立の成功例としては、マラヤ連邦(当時)からのシンガポール離脱がある。1963年にイギリスから独立したマラヤ連邦は、マレー人と中国系、そしてインド系住民の統合を図ったが、人民行動党を率いるリークワンユーが1965年、中国系住民の比率が高かったシンガポールの独立を宣言した。以後、両国は別々の通貨を持ちながら独自の開発を進めた。シンガポールは人民行動党という一党による開発独裁政策を押し進めて、いまや頭脳労働を重視した東南アジアの金融や研究開発拠点としての地位を不動のものにした。マレーシアは、外資導入など自由化がやや遅れたものの、東アジアの経済発展の波に乗り中進国としての立場を固めつつある。
インドネシアは、1975年に一度独立宣言した東部のチモールを翌年併合したが、チモールでは現在も独立運動がくすぶっており、台湾は中国共産党に大陸を追われ、政治的な理由から独立は宣言していないものの、以来48年間にわたり「中華民国」という実質的な「政治実体」としてその存在を世界に主張し続けている。
3つの中国・台湾・香港
香港は1997年7月に中国に返還されたが、返還後も50年間は現在の自由主義済が続けられることになっている。中国、台湾、香港はそれぞれ政治、経済のシステムはまったく違うものの、「三つの中国」と並び称される場合は、「市場主義型社会主義」「開発独裁」「レッセフェール」の三つの体制が特徴を生かしながら平和裏に併存する姿を好意的に表現したもの。決してマイナスイメージを抱いているわけではない。もちろん中国共産党も台湾の国民党も中国統一を標榜しているが、通貨価値の高い台湾ドルや香港ドルからの投資は中国にとってありがたいし、台湾や香港の資本家からみれば、中国大陸は安い労働力を活用できる魅力的を投資地域なのだ。
台湾に香港と同様、1国2制度の導入を提案している中国に対して、台湾当局は台湾の政治実体としての存在を認めない限り「統合」はないとしている。政治的に厳しい対立関係にありながら経済的にはこの10数年、極めて良好な関係を維持しているといって間違いでない。
台湾の国際的地位は、国連への再加盟こそ狭い門となっているが、すでにAPECの主要メンバーであることに間違いはなく、李登輝総統による「休日外交」を通じた東南アジア諸国との関係は良好である。経済のボーダーレス化が進むなかで東アジアにゆるやかな中華連邦が生まれる日はそう遠くない。トウ小平亡き後の中国としてはもはや時を急ぐ要因はなくなり、当面、この良好な経済関係や欧米との外交関係を損なってまで台湾を武力開放する意思はなさそうだ。
25年前までアメリカだった沖縄
日本自身の歴史を振り返っても明治維新このかた百数十年、国境は大きく変動した。幕末の日本の領土は、樺太(サハリン)や千島列島、沖縄の位置づけすら危うかった。幕末の1854年に締結した日露和親条約ではエトロフ島以南の千島列島が日本領土となり、樺太は日露雑居の地とされた。しかし、樺太の帰属をはっきりさせるため1875年、ロシアと「樺太・千島交換条約」を改めて結んで、日本は樺太を放棄した。しかし、30年後、日露戦争後のポーツマス講和条約では樺太の南半分を奪回した。南樺太は明治以降、「雑居の地」の地位を経て約40年間、日本領として過ごし、その後、現在まで50年ロシア領だったことになる。
沖縄は清国が宗主権を主張していたが、1871年の日清修好条規によって日本領土に確定した。翌72年、琉球の尚泰王は琉球藩主になり、琉球藩は7年後に消滅して沖縄県として日本の版図に組み入れられた。約400年、東シナ海に雄飛した琉球王朝は消滅し、第二次大戦の敗戦の1945年まで66年間、日本だった。
明治維新の一時期1868年に、幕臣、榎本武揚は海軍副総裁として函館の五稜郭に立てこもって北海道独立を画策したこともあった。徳川幕府は北海道に松前藩を置いたが、松前藩が全土を制圧していたわけではない。塞外の地としての認識しかなかった北海道はそれこそアイヌとの「雑居」の地だった。明治以降、各地からやってきた開拓団の手によって開発され、事実上、日本領に組み入れられていった経緯を忘れてはならない。
まことしやかに語られた極東共和国
ソ連が崩壊、中央アジア諸国などが分離独立した時、東シベリアではロシア革命直後に一時的に存在した「極東共和国」にならってロシアからの独立がまことしやかに語られた。沿海州からイルークーツクにいたるまでの広大な地域が、「独立して日本に宣戦布告し、ただちに日本に降伏する」というシナリオだった。経済が破綻したロシアの下ではロシア極東の将来はないと判断した指導者たちが「日本円の経済圏」の組み入れられる最短の道としてそのシナリオがあったという。仮にそうなっていれば、北方領土問題は「新しい主権国家」との外交交渉で一気に片づいていたはずである。
敗戦後の日本にしても、1968年の小笠原や、1972年の沖縄返還を振り返れば、20年前まで日本のなかに米国的システムが厳然として存在していたのことが思い起こされるだろう。米国施政下の沖縄では教育こそ日本語で行われていたが、車両は左側通行だったし、税制も米国と同じだった。そこには「平和憲法」も食糧管理法もなかった。泡盛はタイ米で作られ(復帰後も特例で輸入が認められている)、人々はカリフォルニア米を食べていた。バカ高いビール税もなかったから、ビールはBudweiserでたばこはPeterStyvasonの方がうまくて安かった。
離脱の難しさ
一方で国家からの分離を主張して、長年闘っている勢力もある。カナダのケベック州はフランス系住民が多いことから、州政府を構成するケベック党はカナダからの独立を要求している。
人類そのものが民族の分離と統合の歴史だったといえるし、古代は勇猛果敢な部族による地域平定、王朝時代のヨーロッパでは王族の婚姻や戦争による国境の変更があり、近代では帝国主義国家による植民地経営があった。国家が分離したり統合したりしてきた経緯は主に民族や宗族、そして宗教の違いによることが多かった。お互いに武力の優位性を誇示した時代である。しかし20世紀に入るとこれに共産主義と自由主義といった主義主張によるものが加わる。ここでは、核兵器の登場によって現実の戦争の危険性より軍事力の優位をめぐって軍拡競争が繰り返された。
しかし、ソビエト連邦の崩壊により国家の枠組みを規定してきた条件が大きく変化した。
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