返還後の香港では「香港の中国化が始まる」といわれているが、英国勢が植民地を去り、中国資本が香港での存在感を増す潮流はなにも最近始まったことではない。すでに1980年代からひとつの流れを形成していたし、香港が植民地でなくなり中国に返還されて何も変わらないのであれば、そもそも返還の意味はない。
香港の企業社会は一貫して、中継貿易と不動産業を生業に発展してきた。今では対中投資の重要な拠点として金融や航空、メディアなどの分野でも世界のハブ機能を果たしつつある。
●地場資本の形成-1960年代
戦前から続く英国系企業の代表格は香港上海銀行、ジャーディーン・マセソン(貿易)、スワイヤー(航空)、カドューリー(電力)。植民地時代からの利権を継承して社業を発展させた。
1940年代に入ると共産中国を逃れた上海財閥の一群が香港にやってきて繊維産業を中心とした製造業を起こす。今回行政長官に任命されたC.H.Tongもその一族で、香港を基地とした海運業で成功した。
1960、70年代には、リー・カーシンの長江実業やリー・シャウキーのヘンダーソンランドなど地場資本が台頭、英国系企業を次々と傘下に収めて、コングロマリットを形成。地場の中国人資本が香港経済の主役に躍り出るようになった。同時に香港政庁の高官にも香港人の登用が相次ぎ、植民地の呼称もcolonyからterritoryへと変わる。
●グレーター香港の形成-1980年代
1980年代の特徴は、中国の改革開放政策に乗って、広東省への怒濤のような進出が始まる。中国への海外からの投資の6割が香港からといわれ、香港系企業が中国で雇用する労働者は500万人ともいわれる。香港の製造業従事者の数を上回る。
1984年に香港の中国返還が決まると、香港での企業社会地図が大幅に塗り変わる。84年、まずジャーディン・マセソンがバミューダに拠点を移し、91年には香港上海銀行がロンドンに持株会社を設立する。英国系資本の香港逃避は、資産の保全を狙った当然の行為ととらえることができる。
同時に、起きたことは中国の赤い資本家の香港進出である。中国国際信託公司(CITIC)がまず、CITIC Pacificを設立した。光大実業も早くから進出した。従来から香港には共産国家が経営する大会社が多く香港に存在していた。中國銀行、中国旅行社、華潤公司などが代表的組織だ。実はこうした企業は文化大革命の時期も香港で営々と企業経営を続けていた。
●中国企業の香港での資本形成-1990年代
1990年代に入ると中国企業の香港上場がブームとなり、欧米の資金が殺到する。中国系企業による英国系企業の株式取得も始まり、ドラゴン航空は完全に中国資本の企業となり、キャセイパシフィック航空も25%まで中国の資本が入った。香港テレコムにも中国郵電部の資金が入りつつある。
ここ数年では、ペキン・エンタープライゼスや上海実業など通称レッドチップと呼ばれる中国系企業の株式市場での資本調達が目立っている。
香港社会での中国の存在感は過去20年間かけて徐々に増しており、この傾向は最近始まったものではない。またこうした企業を運営する中国側エリートは米国を中心とした留学組で資本主義的経営の素養は、日本人より西欧化している部分もあると指摘されている。
返還後の香港への不安が先進諸国の間に台頭しているが、華南地区の香港化は既に10年の歴史があり、逆に80年代からの香港の発展は、中国の改革開放路線を抜きにしては考えられない。香港が向こう50年間、資本主義体制のもとで活性化を保つかどうかは意見が分かれるところであるが、70年代からの「香港人による香港化」と80年代以降の「香港の中国との一体化」はそう簡単にはつぶれないだろう。(了)
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