■終章 楠木正成の隠れ家
最後に怖い話をしておこう。
昭和天皇から「親の心子知らず」と名指しされた松平永芳を靖国神社宮司に推したのは、「英霊にこたえる会」初代会長の石田和外元最高裁長官だった。この「英霊にこたえる会」ととっても仲良しなのが右派・保守派の最大連合組織「日本会議」。その現会長の三好達も元最高裁長官、そうなると靖国神社と最高裁人脈とが結合していることがよくわかる。
そして、靖国神社崇敬奉賛会の会長は「日本会議」愛媛県本部会長の久松定成、副会長は「英霊にこたえる会」現会長の堀江正夫、常務理事には「英霊にこたえる会」現副会長の関口孝(佛所護念会教団理事)が就いている。
「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者には堀江と関口の名前があった。靖国人脈は教科書にも強い関心を持っている。
この「つくる会」はこれまでも内紛を再三繰り返してきたが、最近の会長人事をめぐって注目を集めたのは、西尾幹二元会長から「神社右翼」と並ぶ「宗教右翼」と名指しされた「原始福音・キリストの幕屋」の存在である。この発言はあくまでも象徴的に用いられただけで、どうやらここには「生長の家」も深く関わっていたようだ。
なにやら靖国神社もまた、いろんな宗教を飲み込み始めていることがわかる。
それでは、「英霊にこたえる会」のホームページを見てみよう。「エンディング」というものが載っている。ここをクリックすると音楽が流れてくる。そして、こう書かれている。
エンディング・・・・武士道を伝えよう
http://www.eireinikotaerukai.net/E06Link/E0600mn.html
正成涙をうち払い
わが子正行(まさつら)よび寄せて
父は兵庫におもむかん
彼方(かなた)の浦にて討死にせん
汝(いまし)はここ迄来つれども
とくとく帰れ故郷へ
汝をここより帰さんは
われ私(わたくし)のためならず
おのれ討死(うちじに)なさんには
世は尊氏のままならん
早く生(お)い立ち大君(おおきみ)に
仕えまつれよ国のため
おお、これはまさしく忠臣楠正成・正行父子の「櫻井の訣別」を謳ったものではないか。歌人で国文学者の落合直文が作詞した唱歌「青葉茂れる桜井の」の一節である。
次に、新しい歴史教科書をつくる会のメンバーらが執筆した扶桑社の『新しい歴史教科書』を開いてみよう。筆者の手元には二〇〇一年初版本と二〇〇五年改訂版の二冊がある。
どこがどう強化されたのか。気になるのは第二章第二節の「武士の政治の動き」である。初版からあった「幕府の軍と戦う楠木正成」と「後醍醐天皇像」に加えて、太平記絵巻から「南朝のようす」の絵と「二条河原の落書」が新たに追加されている。さらに、第三章第四節の「幕府政治の展開」では、水戸学の側注が新たに追加され、「一七世紀に、水戸藩主の徳川光圀が始めた『大日本史』の編さん事業が、水戸学の基礎となっていた」と書かれている。
筆者がクスノキをめぐる旅の最後に選んだ場所は靖国神社。大鳥居をくぐり抜け、長州・大村益次郎のいかつい銅像を見上げながら、本殿前に到着。ひっそりと緑に囲まれた鎮霊社から参拝する。
そして、向かった先は遊就館。入場券を買ってエスカレーターで二階に上がる。
ここは「展示室2日本の武の歴史」。展示パネルを順に見ていく。
神武天皇、日本武尊、神功皇后、坂上田村麻呂、源義家、源頼朝、北条時宗。ここで足が止まる。
「やはり」とひとり呟いた。
次のパネルは「鎌倉幕府を攻略した武将」こと新田義貞、続いて「武人の鑑と敬慕された忠臣」楠木正成、その左横には愛国百人一首とともに菊池武朝の名前もある。(この菊池武朝の表記は明らかに菊池武時の間違いであった。菊池ファンの私はこの間違いを遊就館に指摘したので、すでに修正されているかもしれない。)
ここには当然足利尊氏の名前はなかった。足利家の名前は誰一人として見あたらない。あるのは、建武中興に尽力した南朝忠臣の名前のみ。
続いて見ていこう。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、その次に「修史を通じて日本歴史の骨髄(本質)を明らかにした賢人」徳川光圀の名前がある。パネルには「湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』の墓碑を建てた」と書かれている。そして最後に吉田松陰の名前がある。
次の部屋「展示室3明治維新」では、橋本景岳と共に藤田東湖、吉田松陰に出会う。
「展示室5」には「靖国神社の創祀」を紹介したパネルが掲げられている。冒頭の「社に祀られる御霊」は戊辰戦争から始まる。読んでいこう。
戊辰戦争の際、「當村ノ守護神ヨシテ……」と記された、戦死者の埋葬に関する文献がある。この文書は、当時、戦死者が地域公共の「守護神」として尊祟されていたことをあかしている。公に殉じた死者を、幕末の志士藤田東湖はその長大な『正気の歌』で「英霊」と謳った。偉勲ある英霊を神に祭り、社を建てて祭祀を行う。戦死者の墓を「国家の守護神」、「護国の英霊」として社に祀るのは、古今を貫く日本人の信仰によっている。
「英霊」という言葉が藤田東湖の『正気の歌』に由来することがわかる。
それにしても日本の古今とは戊辰戦争から始まるのだろうか。
パネル五番目の「楠公祭と殉難志士の慰霊」でも楠木正成が取り上げられ、別格官弊社湊川神社創建の背景が詳しく書かれている。
一階に下りると「展示室13大東亜戦争3」で楠木正成の「七生報国」が待っていた。
結局、靖国神社に貫かれているのは南朝正統イデオロギーなのだと確信する。これでは現在の皇室と遠ざかるはず。また、楠木正成の霊とて静謐の場を求めているのではないだろうか。
約一五〇〇年も日本を眺めてきた「蒲生の大楠」とそこに棲まう八百万の神々に想いを馳せよう。日本人の故郷はきっとここにあるはずだ。
■あとがき
私のコラムなり本を読んでいる人の中には、すでにお気づきの方もいるかもしれませんが、一貫してトリックスターの立場で書くようにしています。大それたことを語るほどの能力などないことは十分承知、しかも熱く理想を語るタイプの人間でもありません。所構わず過去と現在を自由に行き来するいたずら者として、硬直化した価値観を引っ掻き回しながら、未来につながるような議論が生まれればそれでよしと考えています。時に茶化すような表現を使うことがあるのも、トリックスターとしての拘りからです。
今回は特に山県有朋一族の方々には失礼な表現があったことをどうかお許しいただきたい。とりわけ全国楠木同族会有志と名乗る方から、私のブログ宛に痛烈な批判が寄せられましたが、私自身も心情的には南朝忠臣ファンであることをここで告白しておきます。それでも『先の大戦で「愚かな政治家、軍部」での「アジ宣伝」尼「楠公精神」を利用され多くの戦没犠牲者ができた事が大変悔やまれます』の一文に、『歴史を揺るがすほどの深遠なる想い』を感じ取りました。お会いできる機会があることを切に望んでいる次第です。
最後に、拙著『隠された皇室人脈』(講談社+α新書)及び拙稿『隠されたクスノキと楠木正成』を書くにあたり、いつも貴重なアドバイスを頂戴している坂本龍一様、筆者が主催する園遊会に参加いただいている大塚寿昭様、伴武澄様、津田慶治様、田中宇様、奥山真司様、O様、N様、そして、寶田時雄様、講談社の富岡広樹様と田中浩史様、財団法人西郷南洲顕彰会の高柳毅様、 福井市 立郷土歴史博物館の角鹿尚計様、財団法人新渡戸基金の吉村暢夫様にこの場を借りて深く御礼を申し上げます。当初『隠された皇室人脈』の「あとがき」にこれを添える予定でしたが、ページ数の関係で割愛せざるを得なかったことを深くお詫び申し上げます。
つい先日、なんともうれしいことに『隠された皇室人脈』の主人公である新渡戸稲造が校長を務めた一高出身の方から、『隠された皇室人脈』の感想を綴った長文のお手紙をいただきました。この一高出身のikane様にこの『隠されたクスノキと楠木正成』を捧げたいと思います。
園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/ 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
|