第七章 「明治天皇すり替え説」の真相
■菅原道真と平将門と御霊信仰
ここで御霊信仰にも触れておこう。
今からさかのぼること千年あまり、平安時代前期の八六三(貞観五)年に、平安京を原因不明の疫病が襲い、朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が神泉苑で行われたという。
かつては天皇家の死者の霊を意味する「みたま」こそが御霊だったが、時代が下るに従い、非業の死を遂げた人の霊魂、つまり死霊を意味するようになり、御霊会は怨霊を鎮魂するための儀式となっていく。
この御霊信仰の象徴としては、菅原道真と平将門がよく知られている。
政争にやぶれ、失意のうちに太宰府で没した菅原道真の死後、平安京は雷火による災害が多発。人々は道真の怨霊による祟りと恐れ、それを鎮めるために北野天満宮が創建される。以後、道真は火雷神となり、室町時代以降は学問の神として天神信仰が全国に広がることになった。
平将門は、平安中期、関東一円に勢力を伸ばしたものの朝廷軍に討たれ、死後、祟りが絶えず、神田明神などに祀られることになる。
この将門は、明治期にも御霊信仰が存在していたことを証明している
一八七四(明治七)年、明治天皇は陸軍の演習指導からの帰途、神田明神に立ち寄ることになっていた。それに先立ち教部省は、「将門は朝敵」との理由から神田明神に対して将門を祭神から外すように求めた。
神田明神側は常陸国大洗磯前神社から少彦名命の分霊を迎えつつ、将門は境内摂社である将門神社に遷座される。ところが、町民の信仰は将門に向けられていたために、祭神を取り替えた神官を人非人呼ばわりし、例祭にも参加しなくなる。閑散とする本社に対して、摂社に参詣者が集中する有り様となった。
近年になって、将門をめぐる歴史の見直しなどと合わせて、将門の復権を願う声が氏子の間に高まり、一九八四(昭和五十九)年には神社本庁の承認を得て、神田明神の「三の宮」として将門は祭神に復帰した。
将門ほどの有名人でも分祀と合祀を経験したわけで、靖国神社のA級戦犯分祀の支持者にとって、将門は心強い味方になるだろう。
いずれにせよ、怨霊の現実感とパワーが強ければ強いほど人々は恐れおののき、怨霊を慰め供養し、神として祀ることで、それまでのマイナスパワーをプラスに変えられると信じていた。
■怨霊と化していた楠木正成
実は『太平記』の中で。楠木正成は阿修羅の如く強力な怨霊となっていた。楠木正成も後醍醐天皇も新田義貞親子も大塔宮護良親王も、『太平記』では怨霊になったと描かれている。
よって、『太平記』はそもそも怨霊の物語だったと山形大学人文学部教授(東京大学文学博士)の松岡剛次は強調する。勝者である足利尊氏と足利直義は、「敗者の怨霊鎮撫の担い手として『太平記』では描かれている」と論じている。
この松岡の『太平記』(中公新書)から、怨霊になった楠木正成の様子を見てみよう。
楠木正成の怨霊は、美女に化けて伊予国の大森彦七盛長という武士に接近する。彦七は湊川の戦いで足利方について奮戦、楠木正成を自害に追いやった人物である。その勲功によりぜいたくな生活を営んでいた。
その時、彦七はお堂の庭に座敷を造り、舞台を設け、猿楽を催そうとしていた。出演者の一人として楽屋へ向かった途中、美女に出会う。その女に猿楽の場所を聞かれた彦七は、あまりの美しさに心奪われ、女を背負って道案内をかってでる。
ところが女は身の丈八尺(二メートル四〇センチ)の鬼と化す。両目は朱色、口の端は耳の付け根まで割け、子牛のような角まで生えていた。
「ひぇ〜、これではまるで一時流行った口割け女ではないか!」(筆者)
鬼と化した楠木正成は彦七の髪を掴んで空中に引きあげようとする。助けを求めた彦七に加勢の者が近付いた頃には、鬼は姿を消していた。
彦七は再び吉日を定めて舞台を造り、猿楽を催した。そして、見物人も集まり、猿楽も半ばに進んだ頃、楠木正成は後醍醐天皇、大塔宮護良親王の怨霊などとともに一群となって現れる。
見物人が恐れおののいていると、雲の中から姿を現した楠木正成の怨霊は「私が生きている間は、種々の謀をめぐらして北条高時の一族を滅ぼし、天皇を御安心させ、天下を朝廷のもとに統一させた。しかし、尊氏と直義兄弟が虎狼のごとき邪心を抱き、ついには帝の位を傾けてしまった」と語る。
続けて、「このため、死骸を戦場に曝した忠義の臣はことごとく阿修羅の手下となって怒りが休まる時がない。正成は彼らとともに、天下を覆そうと思ったが、それには貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣を必要とする。我ら多勢が三千世界を見渡すと、いずれも我が国にある。それらのうち、すでに二つは手にいれたが、最後の一つが貴殿が腰に帯する剣である。それは、元暦の昔に藤原景清が海中に落としたものである」という。
彦七は足利尊氏の忠臣として刀を渡すことを拒み、以後再三楠木正成らの怨霊に苦しめられることになる。
■鎮められず、ただ崇められている
さて、ここで非常に気になることが出てきた。
果たして「太平記読み」は怨霊になった楠木正成を講じていたのだろうか。幕末の尊攘派志士たちや明治以後の庶民たちは、楠木正成が怨霊になっていたことを知っていたのだろうか。
松岡剛次は従来『太平記』において楠木正成が怨霊となったことは「英雄・知将・忠臣としての正成像に比較して、ほとんど注目されていない」と指摘しながら、その正成像は「戦前においては、帝国臣民の模範としての正成像にふさわしくないと考えられて無視されたのであろう」と書いている。
楠木正成ストーリー満載の教科書で学んで育った歴史小説家の永井路子は、悪霊となった楠木正成などを持ち出せば戦前派の大忠臣正成ファンは、「そんなけしからぬ話があってたまるか。大忠臣が悪霊になるはずがない」と憤慨するかもしれないと書いている(『悪霊列伝』永井路子、角川文庫)。
筆者の手元には神社新報社発行の『神道の基礎知識と基礎問題』と題する分厚い一冊の本がある。筆者は小野祖教、改訂者は楠木正成が祭られている湊川神社権宮司を務めたこともある澁川謙一とある。
この中で「神社の祭神の類別」が詳しく記されており、「御霊信仰から来た神」を祀った神社として 京都市 御霊神社、北野天満宮、平将門を祀った 岐阜県大垣市 の御首神社などの名前があるが、建武中興十五社のいずれもがここにはない。
靖国神社と並んで、建武中興十五社の内、南朝遺臣を祀る神社のほとんどが「国家に対する功労者」を祭る神社として類別されており、湊川神社も藤島神社も名和神社も菊池神社も霊山神社も結城神社も四条畷神社もここに名前がある。
本文には「祟りを鎮め慰霊する」神社として、吉野神宮や湊川神社、それに靖国神社をあげながら、殉難や殉国といった悲劇的運命に遭遇した人々の霊を招魂し、鎮霊していると書かれているのだが、怨霊を鎮めるとは書かれていない。
湊川神社に問い合わせてみても、あくまでも国家に対する功労者として楠木正成を祭神としているのであり、怨霊を鎮めるとの認識はないとのことであった。
神道に詳しい知人に聞いてみると、いずれにせよ神として祭った時点で怨霊を鎮めることにもなるとの意見もあった。そう信じたいのだが、こうなるとどうしても神道の曖昧さが気になってしまう。
なんだかこの国はやはり怖い。
怨霊をそのまま神として祀れば、マイナスパワーがますます増幅されて史上最強の怨霊になってしまうような気がするのは筆者だけであろうか。事実、日本は北朝系の昭和天皇と共に滅亡寸前まで陥ったのである。
■根強い「明治天皇すり替え説」
ここで不思議なのが、明治天皇の存在である。明治天皇は自身が北朝系であるにもかかわらず、南朝を正統と裁定した。
この明治天皇の不可解な行動は、維新の混乱期に、長州主導で南朝系の大室寅之祐を明治天皇としてすり替えたとする「明治天皇すり替え説」を生み落とすことになる。
筆者の周辺にいる幕末政治や日本近代史の著名な研究者たちの間にも、この「明治天皇すり替え説」に関心を持っていたり、中には信じ込んでいたりする人が多い。お酒が入るとオフレコ扱いでその信憑性を真剣に語り始めたりする。
しかし、これは家系研究家の早瀬晴夫の『消された皇統』(今日の話題社)によって、信憑性に欠けることが明らかにされている。早瀬は「明治天皇すり替え説」に関心を抱きつつも、入手した大室家の系図が途中省略されており、納得できるものではなかったこと。さらには方言の問題などからも、すり替えが成功する可能性は限りなく低いと判断している。
この件について、松本清張もすこぶる歯切れが悪い。それでも『小説東京帝国大学』(ちくま文庫)の中で、慎重に言葉を選びながら、南北朝正閏問題の出所が宮内省であり、そもそも宮中の祭殿では南北両朝を同列に扱っていたことを明らかにしている。つまり、南北朝正閏問題が巻き起こる以前の南北両朝並立を記した国定教科書には、宮内省の意向が反映されていたことをほのめかしている。
おそらく、皇室は北朝系であることを認識しつつも、当時の南朝正統イデオロギーにも配慮し、南北両朝を区別することなく同列に奉祀していた。そして、この宮内省の見解に対して、またしても腹を立てたのがあの山県“ブルブル”有朋であった。
明治天皇でさえも山県率いる藩閥政治の圧力に屈し、南北朝正閏問題の騒ぎを鎮めることを優先に考えたのだろう。それほどまでに山県率いる藩閥政治と庶民とが一体となって担いだ楠木正成率いる南朝人気が凄まじかったのである。
確かに「明治天皇すり替え説」をとった方が何もかもしっくりすることも事実なのだが、拙著『隠された皇室人脈』でも取り上げたように、昭和天皇が南朝正統史観に立つ平泉澄の進講を嫌がった様子からも、皇室が一貫して北朝意識を持っていたことは明らかである。
仮に「明治天皇すり替え説」が正しかったとしても、その犯罪性は今さら追求できるものではない。むしろ、本当の恐ろしさは、明治天皇以後を南朝系にしてしまうことだ。そうなると「明治天皇すり替え説」は、南朝側の陰謀のようにも見えてしまう。筆者は「明治天皇すり替え説」流布の張本人が山県“ブルブル”有朋ではないかと睨んでいる。
■身の毛がよだつもうひとつの「誤読」
皇居外苑南東の一角に「楠正成像」がある。豪商・住友家が彫刻家の高村光雲らに制作を依頼し、一九〇四(明治三十七)年に完成し、献納されたものだ。今も楠公像の愛称で、皇居前のシンボルになっている。馬にまたがって引き締まった表情で手綱を引く楠木正成の姿はまさに空から舞い降りてきたように見える。
この像の意味も怨霊封じと見れば納得がいく。
皇室では、幕末まで楠木正成や新田義貞の話はタブーとされてきた。皇室自体に北朝意識があったために、南朝忠臣のイメージなど浮かぶはずがなかった。皇室は当時、楠木正成の怨霊と祟りに恐怖しながら、御霊信仰による「楠正成像」を設置することで、楠木正成のマイナスパワーをプラスに変えようとしていたと考えられる。
ここで、身の毛がよだつもうひとつの「誤読」を紹介しておこう。
ほとんどすべての国定教科書に登場した楠木正成の「七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん」すなわち「七生報国」は、新たな敵である鬼畜米英を前に忠君愛国の精神、すなわち国威発揚のためのスローガンになった。
七生とは六道輪廻を超える数を指すことから未来永劫を意味する。しかし、『太平記』を注意して読むと「七生報国」は楠木正成がいったのではなく、弟の楠木正季が語ったものであることがわかる。しかも、楠木正成は、この言葉を聞いたときに「罪深き考えだが、自分もそう思う」といって、お互い刺し違えた。
つまり、楠木正成も『七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん』などというねちっこい考え方を決していいものとは思っていなかったのである。罪深いと知りつつも、弟にいわれて渋々合意しただけだった。それがいつの間にか楠木正成の言葉にされて教科書にも記載される(『悪霊列伝』永井路子、角川文庫)。
さらに気になるのは、朝敵とは誰を指していたのかを考えれば、当然南朝の敵であった足利軍であり、北朝方であったはずだ。
こうなると、鉢巻きや遺書に書かれた「七生報国」はかつての朝敵だった北朝方を滅ぼすためのスローガンであり、当時の勇ましき「天皇陛下万歳」も南朝方のために連呼されていたようなものだった。
知らず知らずの内に日本国民総動員で北朝系の昭和天皇を敵にしていたという、なんともグロテスクな構図が浮かび上がる。昭和の戦争は南朝と北朝の因縁の戦いでもあったのだろうか。
事実、昭和天皇は処刑される可能性があった。米国民の三割が処刑を望んでいたのだ。皇室の存続さえ危ぶまれた。北朝は滅亡の危機に立っていた。
しかも、なんとも恐ろしいことに昭和天皇の人間宣言直後に「我こそは本物の天皇なり」と新聞を賑わしたのは、熊沢天皇を筆頭にそのほとんどが南朝系譜を主張する自称天皇一九人だった(『天皇が十九人いた』保阪正康、角川文庫)。
無視できない現実として、北朝系の伏見宮家は臣籍降下(皇籍離脱)によって一斉に平民になった。臣籍降下した一一宮家五一人中、四九名が伏見宮家系だったのだ。これによって皇位継承者不足が起こり、現在の男系か女系をめぐる皇位継承問題につながっている。
この皇位継承問題は、楠木正成の怨霊が昭和を生き抜き、今なお北朝を滅ぼさんとしている証なのだろうか。(つづく)
園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/
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