第六章 「七生報国」と「ビタカン」
■福沢諭吉の「楠公権助論」
吹き荒れる南北朝正閏問題のあまりのアホらしさに、声を上げた人もいた。
一般的に福沢諭吉は無神論者、宗教否定論者、さらにはキリスト教排撃論者のイメージが強い。内村鑑三は福沢を「宗教の大敵」とまで呼んだ。しかし、福沢は、米ハーヴァード大学に集うユニテリアン主義を日本で広めようとしたこともあった。
このため一九人ものキリスト教各宗派の宣教師と関わりを持ち、三九歳以降最晩年に到るまで英国国教会の宣教師と密接な交流を続ける。
一八七三(明治六)年に英国国教会の宣教団体(SPG)の宣教師として来日したカナダ人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーやアリス・ホアなどを福沢家の家庭教師として招き、ショーには自宅の隣に西洋館まで建てて住まわせた。しかも、お互いに行き来できるように両家の間には「友の橋」が架けられた。
一八七九(明治十二)年、ショーは聖アンデレ教会を創立する。この教会に籍を置いたのが拙著『隠された皇室人脈』にも登場する小泉信三であり、福沢の三女・清岡俊であり、福沢の孫の清岡暎一(慶応義塾大学法学部教授)、木内多代(木内孝三菱電機常務の母)であり、いずれも英国国教会、つまりは聖公会信徒であった。
福沢家も小泉家もまた日本を代表するクリスチャン一族となっていたのである(『福沢諭吉と宣教師たち』白井尭子、未来社)。
キリスト教の影響を受けていた福沢は、皆様ご存じの『学問のすすめ』の六、七編などで痛烈な楠木正成批判を行う。
赤穂義士や楠木正成の討ち死などは、主人の金を落として途方に暮れて、ふんどしで首をくくって死んだ下男の権助と同じじゃないか。
福沢はさらに続ける。
楠木正成の死なんて何ら文明に益することのない無駄死だ。命の捨てどころを知らぬ愚かものだ。
辛辣な「楠公権助論」は、やがて福沢バッシングに発展。福沢の元には誹謗中傷が殺到し、身辺の危険さえを感じたほどだったという。ひょっとして福沢のこと、したたかに楠木人気を利用したのかもしれないが、それ程までに庶民の楠木への思い入れは凄まじかった。当時の庶民にとって、南朝の忠臣は共感と賞賛の的だったからだ。
■フィクションとしての楠木正成ストーリー
南北朝時代の軍記物語の傑作『太平記』は、早くから読まれていたようだが、庶民にまで浸透していたとは考えられない。庶民が『神皇正統記』や『大日本史』を手に取るわけもなく、おそらく『太平記』も読んではいなかっただろう。
『平家物語』がその本よりも盲目の琵琶法師によって知られたように、『太平記』もまた、物語に節を付けて読み語りする「太平記読み」によって庶民に広がっていったのである。
講談のルーツは仏教由来の説教や神道講釈にあるが、大衆化という面で「太平記読み」が果たした役割は大きい。「太平記読み」は、『太平記』原本からではなく、『太平記』から楠木正成の事跡を取り出して、国を治める者の心得とその方法を解釈した『太平記評判秘伝理尽抄』をネタ本にしていた。
この『太平記評判秘伝理尽抄』は、『太平記』で描かれているような単なる名将や神仏の信仰者としての楠木正成像をはるかに飛び越えて、庶民の心をつかんだ文武両道の模範的な政治家に作り変えていた。
楠木正成が軍略家であると同時に、優れた農政家として用水整備や新田開発を進め、植林を奨励する庶民の味方にして、悲劇のヒーローに祭り上げられていく。『太平記』にはないようなことまで盛り込まれた「太平記読み」の楠木正成ストーリーは、もはやフィクションの世界であったが、林羅山や山鹿素行、熊沢蕃山にまで影響を与えていくことになる。
この「太平記読み」とは読むという行為ではなく、門々に立ってその一節を読みあげて銭をもらっていた放浪芸人のことを指す。
放浪芸人たちは、色あせた黒紋付に深編み笠をかぶり、扇子を器用に操りながら、誰もが好みそうな楠木正成ストーリーの聞かせどころを情感込めて哀音切々と読みあげた。諸国を旅しながら、津々浦々の民衆を相手に楠木正成ストーリーを刷り込んだ。かくして、いくつかの名場面は庶民の耳から魂へと染み込み、刻まれていく。
そのクライマックスは、いうまでもなく楠木正成の「桜井の駅」から「湊川の戦」にいたる一節。聞く者は愛情を込めてその死を悼んだ。口々に「残念じゃ」とこぼしたという。このために楠木正成のことを「残念さん」と呼ぶ者までいた。
■「大楠公」を盛り上げた水戸黄門
ここで再び水戸黄門に登場していただこう。
小島毅・東京大学大学院人文社会系研究科助教授は、「太平記読み」が南朝正統史観の歴史認識を浸透させる効果をもたらしていたことを指摘しながら、水戸光圀もまた「そうした風潮に影響されながら、それを大規模な史書編纂という形で後世に残したことになる」と書いている(『近代日本の陽明学』小島毅、講談社選書メチエ)。
『太平記』ではなく「太平記読み」が水戸学に影響を与えたとする説は、まだまだ議論の余地があるように思えるが、庶民を取り込む格好の題材であったことは間違いない。水戸学もまた「太平記読み」人気にあやかろうとした可能性は捨てきれない。
幕末から明治にかけて、なんとも都合のいいことにもうひとつの講談が創作されていた。誰もが知っているテレビ時代劇「水戸黄門」の原点とも言える『水戸黄門漫遊記』である。そして、これまた大変な人気となった。
これはフィクションもフィクション。本物の光圀は水戸と江戸の往復のほかは、せいぜい遠くに行っても鎌倉までだったと記録にある。「助さん、格さん」も実際には「介さん、覚さん」であって、佐々介三郎宗淳と安積覚兵衛澹泊がモデルといわれているが、二人とも光圀が『大日本史』の編纂機関として創設した彰考館の学者であった。
しかも、本物の覚さんは研究に没頭して水戸をほとんど出なかったという。水戸光圀の命を受けて史料採訪の旅に出ていたのは介さんだけで、湊川神社の「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立したのも介さんだといわれている。この介さんの史料採訪の旅が『水戸黄門漫遊記』のモチーフになったのだろう。
しかし、氏原魯山(口演)、河合源三郎(速記)の『水戸黄門中國漫遊記』の第八席では、水戸黄門本人が湊川を訪れ、「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てたとしながら、「櫻井の里に散りにし楠の名はよろず世に匂ひぬるかな」との歌まで詠んだことになっている。
南北朝正閏問題が吹き荒れた明治四四年といえば明治末期、明治天皇崩御の前年にあたる。明治天皇のXデーが迫る中、求心力低下は誰の目にも明らかだった。しかも、次を担う嘉仁親王(大正天皇)も病弱とくれば、弱まる天皇の権威を補強するための絶対的忠臣が求められた。
それはさながら、テレビでお馴染みの「水戸黄門」に登場するなんとも頼もしい「助さん、格さん」のような強力な助っ人である。
そうして選ばれたのが楠木正成だった。幕末の尊攘派志士たちの革命エネルギーがそのまま「空なる国家神道」に持ち込まれたわけだ。水戸黄門もまた「大楠公」を盛り上げる大役を担っていたのである。
■元祖「新しい歴史教科書をつくる会」
それでは、南北朝正閏問題によって、元祖「新しい歴史教科書をつくる会」はどのように『尋常小学日本歴史』を変えたかを知っておこう。
〈修正前「第二十三 南北朝」より〉
ここに於て尊氏は軍を海・陸の二手に分ち、錦旗を押立てて東上せしが、其の勢甚だ盛にして、之を防ぎし楠木正成は湊川にて討死し、新田義貞も敗れて京都に遁れ帰り、後醍醐天皇は再び比叡山に幸し給へり。(『歴史教育の歴史と社会科』松島榮一、青木書店)
〈修正後「「第二十三 湊川の戦」より〉
尊氏の西に奔るや、菊池武時の子武敏、之を多多良浜に迎へ撃ちて克たず、九州の諸将多く尊氏に応ぜり。尊氏すなはち大軍を率ゐ、直義と共に海陸竝び進みて京都に向へり。義貞は之を兵庫に防がんとせしが、賊勢甚だ熾なりしかば、後醍醐天皇更に正成をして赴き授けしめ給う。正成は湊川に陣して賊と戦ひたれども、衆寡敵せず、遂に弟正季と刺しちがへて死せり。死に臨み兄弟相誓ひて、「七たび人間に生まれて朝敵を滅さん。」といへり。義貞も戦敗れて京都に退き、天皇再び比叡山に行幸し給ふ。尊氏遂に京都を犯し、長年等戦ひて之に死せり。(『歴史教育の歴史と社会科』)
こうした教科書の修正を、海津一朗・和歌山大学教育学部助教授は「明治期の国家権力が、歴史的事実を歪曲してまで南朝を正統とする教育への介入を行った背景に、落日の明治天皇を絶対化することにより、日本国民を忠良な臣民に作り替えるというイデオロギー統制の意図があったのは疑いない」と書いている(『楠木正成と悪党』梅津一朗、ちくま新書)。
その後、一九二〇(大正九)年改訂の第三期『尋常小学国史』の見出しに楠木正成が登場し、「桜井の別れ」のエピソードが紹介される。さらに、楠木記述は読みやすいように口語体に改められ、第二次世界大戦中の一九四三(昭和十八)年にはドラマチックな美文調物語に作り替えられる。
敗戦前夜には「桜井の駅」「湊川の戦」「母の教へ」「吉野参内」の四小節からなる楠木正成ストーリーを取り上げた教科書も登場し、楠木正成こそが「古今忠臣のかヾみ」であり、「わが國民は、皆、正成のような眞心を以て、大いに御國のためにつくさねばならぬ」(『日本教科書体型』近代編第二〇巻)と教え込まれたのである。
フィクションに過ぎなかった「太平記読み」が伝えた楠木正成ストーリーが、教科書を飲み込んで、堂々と子供たちに刷り込まれた。
とりわけ楠木正成の『七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん』は、ほとんどすべての国定教科書に登場し、新たな朝敵である鬼畜米英を相手に、「七生報国」が忠君愛国の精神、すなわち国威発揚のためのスローガンになっていく。
■ 戦地に彷徨うクスノキと楠木正成
クスノキに代わって舞い降りてきた楠木スピリッツが教科書によって国民に浸透、南方熊楠の警告通りに「日本人の美的感覚だけでなく、愛国的な感覚をも壊し、あともどりできないところに追い込むことになる」。
幕末に楠木正成を蘇らせたのは長州であり、薩摩である。特に吉田松陰の誤読を振り返れば、長州の責任は重大だった。そして長州・浄土真宗西本願寺派連合が「空なる国家神道」を生みだした。
しかし、国が主導して「空なる国家神道」に楠木正成を組み入れたわけではない。楠木正成をよろこんで招き入れたのは「太平記読み」に親しんだ庶民だった。楠木正成が舞い降りてきたとき、誰も彼もが大歓声で迎えたのだ。国はこの庶民の人気に乗っかったに過ぎない。
それはどう考えても、勝てる見込みのない戦争だった。
イラク戦争でのネオコンが「ステロイド剤を使ったウィルソン主義」(『アメリカの終わり』フランシス・フクヤマ、講談社)なら、当時の日本は、楠木正成という名のステロイド剤を「空なる国家神道」に注入することで、米国をも打ち負かすことができる筋肉隆々の国体になると誰もが信じ込んだ。そして、勇敢にも米国へ真正面からぶつかっていった。
兵士たちの傍らには、死んだクスノキから得たカンフル剤も常に寄り添っていた。樟脳はカンファーまたはカンフルと呼ばれる。一九三二(昭和七)年に武田薬品から発売された「ビタカンファー」(呼吸中枢興奮剤)は樟脳からつくられていた。
兵士たちは倒れても倒れても通称「ビタカン」で叩き起こされ、戦地へと送りこまれた。貴重な命が、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのように戦場に散っていく。
そして、兵士たちの鉢巻きや遺書には、「七生報国」という文字
が、流れる涙ににじんで書き残された。
悲しくも、「残念さん」によって、すべての日本人が「残念さん」
になってしまう。 (つづく)
園田義明ホームページ http://www.sonoda-yoshiaki.com/ 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
|