■ビックリ憲法をめぐる因縁(1)
日本の国体護持と昭和天皇の戦争責任追及回避に向けた「昭和天皇免罪工作」が完璧に実行された。実行したのは薩摩系宮中グループと新渡戸稲造やギルバート・ボールズが築いた日米クエーカー人脈である。彼らは昭和天皇を御護りするために完全に合体した。そして、確かに昭和天皇を救い出したのである。この結果、生まれ落ちたのが日本国憲法の象徴天皇制であり、憲法第九条である。
憲法九条の制定過程について様々な議論が交わされてきた。その発案者については、これまで幣原発案説やらマッカーサー発案説、それに幣原・マッカーサー意気投合説、あるいはケーディス・ホイットニー共同発案説、天皇発案説などが取り上げられてきた。
しかし、憲法九条をどこからどう読んでもクエーカーの信条そのものであって、まずここからスタートしないことに無理がある。頭を柔らかくして「真昼の決闘」や「友情ある説得」などの映画を見ればいい。その登場人物に現在の日本に重なる姿を見出せる。
これを説く鍵は良心的兵役拒否者にある。コンシェンシャス・オブジェクターは日本では良心的兵役拒否者と訳されることが多いが、これを良心的参戦拒否者と訳せばより身近に感じられるだろう。
日本国憲法に関わった人物の中で明らかに良心的兵役拒否者であったのはヒュー・ボートンである。ジョセフ・グルーのシカゴ演説が米国務省日本派の重要人物であるヒュー・ボートンを大いに勇気づけたことはすでに書いた。このボートンも敬虔なクエーカー教徒であり、アメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の一員として1928(昭和3)年に来日し、ギルバート・ボールズの補佐役を務めた。後に太平洋問題調査会(IPR)での日本研究が認められ、国務省で対日政策立案の中心を担う。
クエーカーは古くから平等、平和、戦争放棄、奴隷制廃止、女性参政権、精神障害者保護、刑務所改善などを主張してきた。ボートンの祖父は南北戦争に異議を唱え、以後ボートン一家は公然と戦争反対を訴え続けてきた。ボートンもクエーカー教徒であるという理由で徴兵名簿に良心的兵役拒否者として登録していたのである。
この宗教的、思想的信条から徴兵を拒否するコンシェンシャス・オブジェクションの制度がアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の尽力もあって米国で最初に法制化されたのは南北戦争の時である。良心的兵役拒否者は代替業務として病院勤務もしくは解放奴隷保護、または代人をたてるか代償金300ドル(南部では500ドル)の支払いを求められた。この内、代人と代償金制度は貧富の差があるとの反発から第一次世界大戦の際に廃止されている。
代償金を湾岸戦争時の多国籍軍に対する総額130億ドルの拠出に、代替業務をイラク戦争時の人道復興支援活動及び安全確保支援活動に置き換えれば、良心的かどうかは議論の余地があるにせよ、日本が良心的兵役拒否者のような存在であることがわかる。
日本と同じく敗戦国となったドイツでは68年に復活した徴兵制以前からドイツ連邦共和国基本法(49年制定)においてコンシェンシャス・オブジェクションを基本権として明記している。
日本とドイツ両国に共通するのは敗戦国としての宿命を背負ってしまったことだ。無力な敗戦国に戦勝国の出兵要求を拒否できるわけがない。戦力放棄をもって世界初のビックリ憲法と称しながらも「憲法九条は救国のトリックだった」とする堤堯の『昭和の三傑』(集英社インターナショナル)が面白い。堤が豊富な取材経験と膨大な資料によって打ち出した仮説はアイデア満載である。堤はあの三島由紀夫とのインタビューでこう話している。
「三島さんは不愉快に思うかもしれませんけど、憲法九条って実に巧みな条文だと思います。これあるために日本人は戦争に駆り出されずに済んで来た。古来、A国に負けたB国の戦力が、C国への侵略・制圧に使役される例は枚挙にいとまがないですよね。日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済んだ。(略)憲法九条を楯にとって。いわば憲法九条は『救国のトリック』だったと思います。」
これを以前から紹介してきた国際戦略用語としてのバック・パッシング(責任転嫁)理論に置き換えてみよう。バック・パッシングとは大国が新たな脅威に対して、他国に対峙させ、場合によっては打ち負かす仕事をやらせる戦略を言う。責任を押し付ける側はバック・パッサー、押し付けられる側はバック・キャッチャーと呼ばれる。
つまり、大国Aはバック・パッサー、B国はバック・キャッチャーとなる。堤が語るようにこれが勝者と敗者の関係であればなおさら黄色い日本はもはや米国の手下として責任を押し付けられたのだろうか。少なくとも日本はソ連などの共産主義への防衛拠点にされていたのであろうか。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(2)
当時の状況を見ると堤が指摘するほど単純ではなかったようだ。日本国憲法の立案に主導的な役割を果たし、後に国家安全保障会議(NSC)に吸収されることになる国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の海軍省委員であったロレンツォ・S・サビン海軍大佐は、防衛拠点としての利点よりも日本の再軍備自体の危険の方がはるかに上回ると指摘しながら、再軍備禁止を絶対的なものとして主張していた。
サビンは45(昭和20)年11月15日付の意見書で「少なくとも無期限に、日本は陸軍も海軍も持つべきではない」と明言した。そして、この意見書が憲法改正指令及び制定方針を記した「日本の政治機構の改革(SWNCC228)」第4段第b項第2号の「国務大臣文民制」に反映される。原秀成はこのサビン意見書が憲法九条の戦争放棄と戦力不保持の重要な起源となっていると主張している(『日本国憲法制定の系譜2』日本評論社)。
しかし、将来を見込んで日本をバック・キャッチャーに仕立て上げる戦略も実行に移されていた。バック・キャッチャーには新たな脅威に対抗できるだけのパワーが必要であり、それを支える経済力や技術力も必要となる。米国はあくまでも共産主義に対抗するために日本の経済再建を押し進める。
やがて武装解除と民主化という名の米国化を目的とした占領政策が軌道に乗り始め、朝鮮戦争が目前に迫ると、米国は日本に再軍備を要求する。この時点ですでに米国はサビン意見書との矛盾を曝け出した。
吉田狸は米国の矛盾をあざ笑うかのように軍事的には頼りにならない経済大国へと邁進していく。米国にとってもはや現在の日本は戦力外通告国のような存在となっていることだろう。しかし、日本も経済力を武器に共産主義に対する防波堤の役割を十分に果たしてきたとも言える。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(3)
それでは憲法9条の発案者から見ていこう。『戦後日本の設計者』(ヒュー・ボートン・朝日新聞社)の訳者である五味俊樹は、そのあとがきで「自己の宗教信条であるクエーカーの平和主義が(ボートン)博士の生きざまに色濃く反映していた」としながら、「政策立案の過程においても、博士の信念が貫かれていく」とした上で、『具体的には、「戦後」の日本から軍事的要素を一掃しようとするアイデアであり、正式文書としては「降伏後におけるアメリカの初期対日政策」(SWNCC150/4/A)であった。しかも、それは日本国憲法第九条によって結実したと解釈できないことはない」と書いている。
続けて「日本の非武装化は、クエーカー派の平和主義のみならず当時のアメリカの現実的利益にも適っていたのであり、個人の宗教的理念と国家の戦略とが偶然かつ見事に合体したケースである」と解説している。そして「いずれにせよ、ボートン博士が、日本国憲法における平和主義、国民主義、基本的人権という三つの基本原則のうち、とりわけ、平和主義の思想的原液を注入するうえでその一端を担っていたことは確実である」と結んでいる。
このSWNCC150/4/Aとは国務省極東局日本部所属のボートンも加わった国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)がまとめた初期対日政策の最終案であり、「完全武装解除と非武装化」が明記され、マッカーサーの確認を経て1945(昭和20)年9月21日に出されている。
翌46年(昭和21)年1月7日には憲法改正指令及び制定方針を記した「日本の政治機構の改革(SWNCC228)」が最終決定され、マッカーサー宛に送付、連合国軍総司令部(GHQ)内で最も重要な参考資料とされている。
第147回国会・参議院憲法調査会(2000年5月2日)にリチャード・A・プールが参考人として出席した。プールはGHQ民政局で天皇を「象徴」とする案を起草した人物である。プールはSWNCC228がガイドラインであったとしながら、「(SWNCC228は)当時、極東問題担当部署、今は東アジア問題担当部署と言われているところのヒューボートン博士がその草案に大きくかかわったと言われております。彼の補佐をしたのはマーシャル・グリーンでありまして、グルー大使の個人的なアシスタントでありました。」と証言している。そして、「マッカーサーは、実は余り国務省と相談したがりませんでした」との証言も飛び出している。
このSWNCC228に明記された「国務大臣文民制」は、「完全武装解除と非武装化」(SWNCC150/4/A)と「少なくとも無期限に、日本は陸軍も海軍も持つべきではない」(ロレンツォ・S・サビン意見書)とが反映されているとされる。
ここまで見てくるとビックリ憲法は国務・陸軍・海軍三省調整委員会のサビンが発案者のように見えてくるが、実はボートンの起案文書にその原点らしき記載がある。その文書こそが、ジョセフ・グルーがシカゴ演説で参考にした「日本・戦後の政治的諸問題(T381)」(国務省領土小委員会第381号文書)である。
ボートンが戦争真っ只中の43(昭和18)年10月6日に起案したT381でグルー演説と内容的に通じる箇所は次の部分である。
「天皇制は戦後日本をより安定させる要因の一つとなるように思われる。天皇制は安定した穏健な戦後の政府の樹立にとって、価値のある要因になるであろう。」(『日本国憲法制定の系譜1』原秀成・日本評論社参考)
このT381の冒頭にはこう書かれている。
「日本の将来についての連合国の全般的な目的は、日本が再び攻撃を繰り返すことができないようにするべきであり、同時に、経済的であれ、社会的であれ、あるいは政治的要因であれ、この侵略精神がはびこるようなさまざまな要因を除去することである。」(『日本国憲法制定の系譜1』参考)
重要な点はT381を起案した時点ですでにボートンが戦後の日本に憲法改正を必要不可欠と考えていたことであり、しかもこの時すでにボートンは象徴天皇制と憲法九条をセットにして論じていたのである。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(4)
当初マッカーサーは憲法九条を自分が発案したように見せかけていた。野心のためにハーバート・フーヴァー第31代大統領にアピールする必要があったのだろう。しかし、後に困った問題が起こったために幣原発案説に切り替えたのである。
米国側もビックリ憲法などさっさと改正するだろうと読んでいた。そうなれば速やかに再軍備させて前線兵力として活用できる。誰がどうみても日本の戦争放棄と戦力放棄は米国にとってデメリットの方が多い。ところが、米国にとって予想外の展開が起こる。朝鮮戦争が目前に迫っても吉田狸はひょうひょうと憲法九条に閉じこもりながら経済再建に力を注ぐ。そうなると憲法九条の言い出しっぺがマッカーサー本人では具合が悪い。マッカーサーは突如幣原発案説を言い出す。
これを裏付けるようにニューディーラーがわんさかいた民政局のフランク・リゾーは西修に興味深い話をしている。民政局局長のコートニー・ホイットニーが憲法九条の発案者に関して、当初「アウア・オールドマン」(マッカーサーを指す)と言っていたが、朝鮮戦争勃発以降「ユア・オールドマン」(幣原を指す)と言い出したとのことである。
これを受け西は「朝鮮戦争勃発の時点あたりから、幣原発案説が総司令部内で作り上げられ、いろいろな手段を利用して、流布、定着を図ったとの見方も成り立つ」と指摘している(『日本国憲法はこうして生まれた』西修・中公文庫)。
吉田狸も『回想十年』(中公文庫)の中で日本の再軍備の話が初めて真剣に出たのは朝鮮戦争が起こる直前だったとしている。そして、50(昭和25)年6月25日に朝鮮戦争が勃発、同年7月7日に国連軍最高司令官に任命されたマッカーサーは、翌8日、吉田に警察予備隊創設と海上保安庁増員を指令する。7万5千人の警察予備隊の創設と海上保安庁の8千人増員を指示し、後の陸上自衛隊と海上自衛隊の母体となった。この時の吉田とマッカーサーの曖昧な対応が「自衛隊は軍隊か否か」という不毛の論議を半世紀以上にわたって繰り広げる素地を作ったのである。
保守的な共和党員であったマッカーサーは大統領就任への野心を抱いていた。48(昭和23)年の大統領選に出馬することを考えたマッカーサーはGHQ内のニューディーラーを利用する。民主党支持票の取り込みを狙ってリベラル派が好みそうな「下からの改革」を日本で推進したのである。その象徴として財閥解体があった。マッカーサーはこの時の予備選で大敗しても野心を捨ててはいなかった。そのために軌道修正が行われ、中途半端な再軍備準備や幣原発案説へとつながる。いわば自衛隊も幣原発案説も朝鮮戦争の落とし子であった。
朝鮮戦争はマッカーサーにとって最後のチャンスに見えた。52(昭和27)年の大統領選に向けてなんとしてもこの戦争にも勝利し、凱旋パレードの中、出馬表明を行いたかったのだろう。しかし、この夢は叶わなかった。51(昭和26)年4月11日にトルーマン米大統領(民主党)はマッカーサーを突如解任する。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(5)
堤は象徴天皇制と戦力放棄を鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂の三人による連携プレーであり、昭和天皇もプレーヤーの一人に違いないと書いている。鈴木はヨハンセン・グループの一員、幣原も息子をフレンド・スクールに通わせ、縁戚に三菱本家と澤田家がいる。
プレーヤーはまだまだ存在した。ビックリ憲法もまた元祖「コンシェンシャス・オブジェクター」の日米クエーカー人脈と元祖「反ソ・反共」の薩摩系宮中グループが仕組んだ見事な戦略によって生み落とされた。薩摩系宮中グループはクエーカーを利用し、クエーカーもよろこんで利用されたに過ぎない。
日米クエーカー人脈と薩摩系宮中グループが完全に合体したのは牧野伸顕の存在がある。新渡戸と薩摩系宮中グループの関係は牧野の文部大臣時代にまで遡ることができる。新渡戸を名門一高の校長に推したのが牧野であった。また国際連盟の初代事務次長就任にも牧野と珍田捨巳、それに後藤新平が関わっている。新渡戸の人生の転機に必ず牧野の姿が確認できる。
牧野のキリスト教への理解は三菱本家の岩崎久弥(ペンシルベニア)と同じくフィラデルフィア留学時代のキリスト教徒との出会いがあった。牧野は『回顧録』に「フィラデルフィアはクエーカー宗徒の平和主義的な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平和的なピューリタン主義な国だという印象を受けた。」と書き残している。
おそらく牧野や岩崎、松平恒雄、それに幣原喜重郎も米国滞在中にクエーカーの平和主義を象徴するコンシェンシャス・オブジェクターを見聞きしていたに違いない。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(6)
それでは受け手である当時の日本を見てみよう。日米クエーカー人脈が戦後続々と憲法制定機関に舞い降りてくる。米国からはヒュー・ボートンの他に国務省東洋課長代理時代に第一次教育使節団の一員として再来日するゴードン・ボールス、それに戦略事務局(OSS)心理作戦計画本部からはマッカーサーの軍事秘書として来日するボナー・F・フェラーズの3名が登場する。ボールズもボートンと同じく国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の極東小委員会(SFE)特別委員会に関与していた。しかも二人は兄弟同様の付き合いで占領政策について完全に思いを一つにしていた。
そして、彼らを米国の地から操っていたのはフーヴァー元大統領である。フーヴァーはフェラーズと極めて親しい関係にあり、マッカーサーにとっても野心を実現する上で最も頼りになる盟友であった。フーヴァーはアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)への協力を惜しまなかった。なぜなら、このフーヴァーこそが歴代に二人しかいないクエーカー大統領だったからだ。そして、フェラーズはフーヴァーがマッカーサーに送りこんだお目付役のような存在であった。
日本からは関屋貞三郎が枢密顧問官として復帰して昭和天皇の無罪証言集めに奔走し、御用掛の寺崎英成やフェラーズと共に弁明書としての「昭和天皇独白録」を作成する。そして、薩摩系宮中グループからは吉田茂首相、白州次郎終戦連絡中央事務局(CLO)次長が登場、米国からはジョセフ・グルーが見守っていた。
関屋が就任した枢密顧問官とは明治憲法56条に「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と定められている。枢密院は「憲法の番人」とも称される天皇の最高諮問機関である。それにもかかわらず現行憲法制定過程での枢密院の役割はこれまでほとんど無視されてきた。
この枢密院で1946(昭和21)年4月に「帝国憲法改正草案枢密院審査委員会」が設置されているが、この委員には関屋の他に幣原の兄・幣原担がいた。新憲法案を採決した同年6月8日の枢密院本会議では、三笠宮が「マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」と批判的な意見も述べながらも非武装中立と戦争放棄を支持する意見を表明したことはよく知られている。三笠宮は採決時棄権したが、結局この本会議で可決され衆議院へ送付された。
この本会議にクエーカー人脈と薩摩系宮中グループから少なくとも吉田、関屋、鈴木の3名が出席していた。その後衆議院本会議、貴族院本会議、衆議院本会議可決を経て、最後に再度枢密院本会議で10月29日に可決され、11月3日に公布された。
驚くことに10月29日の枢密院本会議にはクエーカーをよく知る樺山と松平恒雄が枢密顧問官として出席していた可能性が極めて高い。樺山も松平も6月10日より枢密顧問官に就いていた。この事実とこの意味を研究者のほとんどがこれまで見逃してきた。
堤は昭和天皇もプレーヤーの一人に違いないと書いた。実はこの枢密院人事に昭和天皇の関与を示唆する文献も存在する。『昭和天皇二つの「独白録」』(NHK出版)に収載されている元侍従長・稲田周一備忘録の46年6月2日付日記にはこう書かれている。
「宮城に於ては、ひる、牧野伯をお召。枢密院議長就任に付、御話があったと承る。」
昭和天皇は牧野に枢密院議長就任を要請した。しかし、牧野は実際には就任していない。牧野の代わりに親英米派の樺山と松平が6月10日に枢密顧問官に就いたのだろう。この人事の背景に現行憲法の制定を誰よりも押し進めたかった昭和天皇の意志が読みとれる。
当時の枢密院にはクエーカーをよく知る幣原、樺山、松平の重鎮3名がいた。しかも、貴族院で憲法改正審議を行った小委員会には新渡戸の弟子である高木八尺と高柳賢三がしっかり名を連ねていた。大平駒槌枢密顧問官が残した当時のノートには「戦争を放棄するなんて、幣原の理想主義だ」と書かれている。ボートンの人脈から考えれば、日本側の調整窓口になっていたのは高木であろう。その意味ではボートンから高木を仲介にした幣原間接発案説もあったのかもしれない。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(7)
外務省で吉田の後輩にあたる武者小路公共は、吉田の歴史観について「英米を世界史の中での本流」とする見方に立っていたことを紹介している。厳密に言えば、英国とのビジネスを手掛けていた養父・吉田健三の影響もあって、吉田は英国こそがまさに本流と見ていたことは間違いない。日本古来の武士道とは異なる英国式の考え方から、よき敗者としての「負けっぷり」にこだわり、トレベリアンの『英国史』を再読して「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」を信条とした。この英国本流の見方は相棒の白州“プリンシプル”次郎にも共通する。
吉田は「昭和天皇免罪工作」が象徴天皇性として結実したことをほくそ笑み、それでもネチネチうるさいソ連やオーストラリアを黙らせるために憲法九条を利用した。吉田もまたフーヴァー元大統領が喜びそうな憲法九条によって日本が良心的参戦拒否国となったことを世界にアピールして見せたのである。吉田は5月29日に行われた憲法改正草案枢密院審査委員会ではっきりこう述べている。
「マ(マッカーサー)司令部との交渉の経過を述べれば第一条によつて陛下のpersonが守られる。又畏れ多いことではあるが戦争責任からも陛下をお救ひすることができると云ふ考へである。」
続いて吉田はユーモアたっぷりにこう語る。
「日本としてはなるべく早く主権を回復して進駐軍に引上げてもらいたい。費用の点も問題であるがそれは別としてもアメリカ軍の軍人やその家族より見てもその声は強い。GHQはGo Home quicklyの略語だとする者もある。そのためには先方の望の様に日本再軍備のおそれはなく又民主化は徹底した、と云ふことを世界に早く証明し、占領の目的完成になるべく早く近づきたい。そのためには憲法改正が一刻も早く実現することが必要である。私はひそかにそう考へてゐる。」
吉田は昭和天皇の無罪が確定し、日本周辺の脅威が無くなればさっさと改正することも考えていた。同時に戦前からの元祖「反ソ・反共」の吉田は共産主義の脅威を見抜いていた。米ソが対立し、その対立が長期化することも予測していた。なんせ日本はロシア相手に勝ったことがあるのだ。日本が軍隊を持っていれば、米国によって存分に利用されることになる。同じ日の委員会で吉田はこう話している。
「九条は日本の再軍備の疑念から生じた。これを修正することは困難である。(略)軍備をもたざる以上、例へばソ聯に対しては、英米の力を借りるより他ないと思ふ。」
被占領国が占領国の力を借りちゃうのである。ここにドイツも羨む吉田のトリックがあった。これが後に米国が批判的に用いる「安保ただ乗り論」になっていく。吉田狸は憲法九条が楯としてバック・パッシングの道具になることに気付いていた。本来なら敗戦によってバック・キャッチャーの運命を背負ったはずの日本が、憲法九条のおかげでバック・パッサーの立場に置かれたのである。
日本に対して「自由世界への貢献」をも口にして再軍備を執拗に迫ったのがジョン・フォスター・ダレス大統領特使(国務省顧問、後に国務長官)であった。勝者は手のひらを返したように敗者に剣をとって立つよう求めた。ダレスの再三の要求を吉田がのらりくらりとかわすことができた背景には、ソ連に対する「封じ込め政策」で知られるジョージ・F・ケナンの存在もあげられる。
■ビックリ憲法をめぐる因縁(8)
ジョージ・F・ケナンは1948(昭和23)年に国務省政策企画室室長として来日する。ケナンは占領軍が引き揚げた後、日本が独力で共産主義の脅威に立ち向かうためには経済再建を優先させることが第一だと考えていた。吉田同様にソ連が軍事的な侵攻で領土を拡大する野望を持っているとは思っていなかった。だからこそ、日本が共産主義に対抗できる安定した経済力と共産主義者の内乱を抑えられる程度の警察力を持っていれば、敢えて軍事的な対抗は必要ないと考えていた。ここで吉田の考えと一致したのである。ところが、来日したケナンに待ち受けていたのはマッカーサーの推進する財閥解体である。ケナンにはこの財閥解体が将来の共産化につながる兆候に見えた。そして、マッカーサーへの不信感につながる。
この吉田やケナンの経済重視の考え方は外交問題評議会の(CFR)の設立時からの重鎮であり、戦中には国務省領土委員会議長や国務省戦後諮問委員会副議長などを歴任したイザヤ・ボウマンの影響が見られる。地政学の大家にして米国の国益に経済圏の概念を持ち込んだボウマン理論が吉田のトリックを後押し、ケナンの報告を受けたトルーマン大統領によってマッカーサーは不利な状況に追い込まれた。地球規模の「封じ込め政策」が二人の明暗を分けたのだ。
この封じ込め政策の概念もケナンが本来主張したソフトな封じ込めから、核戦力と通常戦力の飛躍的な強化による軍事的対決へと変質していく。この背景には米国の軍産複合体による思惑もあった。当然ここに日本の金を組み入れようとする動きも活発になる。
こうした再軍備要求に応える素振りを見せながら登場してくるのが岸信介である。しかし、結果として見れば、岸も素振りだけで自主憲法制定はおろか憲法改正までも見送った。誰かさんと違って、少なくとも岸は礼儀をわきまえていた。真意を知ろうと吉田の元に何度も足を運んだ。結局、狐と狸の騙し合いによって現在まで憲法九条を楯にする戦略が受け継がれてきたのである。
日本はたとえ発案者が誰であろうが米国押し付け論を連呼し続けることは戦略的に見れば極めて正しい。中国の脅威が消えるまで「言い出しっぺは米国じゃないか」とチクチク言えばいい。そうすれば米国も沈黙するしかない。
「言い出しっぺは米国じゃないか」論の根拠もリチャード・ニクソン発言を利用させていただこう。53(昭和28)年11月に来日したニクソン(当時副大統領)が「1946年に日本を非武装化したのは米国であり、米国が誤りを犯したことを認める」と演説した。このニクソンこそが後に歴代に二人しかいないもう一人のクエーカー大統領となる。歴代大統領でクエーカーだったフーヴァーもニクソンもガチガチの共和党員である。日本人が軽々しく連想しそうなクエーカー=平和主義=民主党=左翼の単純な図式などあてはまらない。
それでも日本人特有の無邪気さは見直した方がいい。憲法九条の幣原発案説を長男・道太郎が『外交五十年』の巻末で強く否定しているが、これを堤が「ビックリ条項が生んだビックリ解説」と評した。道太郎は幣原や吉田のトリックが理解できなかった。この路線に乗って米国押し付け論を根拠に憲法改正を声高に叫ぶ人がいる。これこそまさに「親の心子知らず」と言う。
「私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」
吉田が『回想十年』で力強く語ったこの言葉を引き継ぐ本物の保守がいないことが残念でならない。中国や北朝鮮の脅威が存在する中で、トリックが仕掛けられないような改正は時期尚早と確信する。
良心的な兵役拒否は米国保守派によって推進され法制化されている。その時が来るまで、日本は役に立つかどうかわからない最新兵器を適当に買わせていただきながら、敢えて「良心的」を強調し、良心的参戦拒否国を名乗っていればいいのだ。
園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
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