■太平洋問題調査会(IPR)をめぐる因縁
戦前の日本人クリスチャンが多数参加した太平洋問題調査会(IPR)という国際的な組織があった。IPRはハワイのYMCA(キリスト教青年会)の汎太平洋YMCA会議の発展組織として1925(大正14)年に設立され、この年ホノルルで行われた第一回会議に始まり、58(昭和33)年の第13回ラホール(パキスタン)会議を最後に消滅している。
加盟各国に独立した支部が設けられ、日本IPRは36(昭和11)年の第6回ヨセミテ(米国)会議を最後に解散、戦後再結成された日本IPRの復帰は50年の第11回ラクノウ(インド)会議まで待たなければならなかった。
初期日本IPRを背負ったのは日本近代資本主義の父・渋沢栄一(評議委員会会長)、井上準之介(初代理事長)、そして新渡戸稲造(二代目理事長)である。その発祥にYMCAの存在があったこともあり、活動の中心は新渡戸の一高時代に影響を受けた新渡戸人脈の高木八尺(一時クエーカー)、前田多門(聖公会からクエーカー)、鶴見祐輔(晩年クエーカー)、高柳賢三、那須皓らに委ねられることになる。
樺山愛輔も第3回京都会議に参加しており、樺山の弟子とも言える松本重治や牛場友彦、樺山の女婿の白州次郎がIPRに送りこまれた。IPRは新渡戸、渋沢、樺山の弟子達の集会場所のような存在となっていた。
樺山も満州事変直後に険悪となった日米関係の修正を図るべく渡米、訪問先には米国エスタブリッシュメントが一同に集まるボヘミアン・クラブも含まれていた。また、グルーを通じて米国金融史に輝かしい実績を残したモルガン家とつながる。グルー自身がモルガン家と姻戚関係があり、グルーの妻アリスの大叔父は黒船を率いて来航したペリー提督にあたる。しかも、井上準之助亡き後、モルガン家が築いたJ・P・モルガンの社史に残る名会長として知られるトマス・ラモントとの親交を引き継いだのも樺山であり、戦後樺山の長男である丑二はモルガン銀行東京支店顧問に就任している。
樺山の人脈はロックフェラー家にも及ぶ。樺山は薩摩の松方正義の孫にあたる松本が携わった国際文化会館事業を通じてジョン・D・ロックフェラー三世と親密な関係になる。松本とロックフェラー三世はIPRで出会う。そもそもIPRはロックフェラー財団がスポンサーとして名を連ねており、その意味ではロックフェラー家が今なお深く関与するトライラテラル・コミッションやウィリアムズバーグ会議の前身とも言える。このロックフェラー三世人脈は後に吉田茂へも引き継がれることになる。
この日本IPRのメンバーは近衛文麿のブレーンにもなっていたが、近衛自身も新渡戸の講演を聞いて非常に感激し、一高入学を決心したという裏話も残されている。そして近衛の最期に立ち会ったのも彼らだった。
白州から「近衛自殺近し」の連絡を受けて松本と牛場は近衛邸に到着、近衛が自殺したその夜に二人は隣室で寝ていた。自殺を止めようと説得するために泊まり込んでいたと松本は書いている。「天皇さまには木戸幸一がいるから大丈夫」と語る近衛に対して、松本は木戸一人では危ないと答える。そして松本に「最後のわたしのわがままを聞いてくれ」と言い残した。
近衛の自殺を松本は『昭和史への一証言』(毎日新聞社)の中で「戦犯として(近衛が)巣鴨に行き、法廷に立つことになれば、天皇さまと自分が近いことがわかり、戦争責任の累が天皇さまに及ぶ危険がある。それを防ぐために自殺したのではないか」と書いている。
このIPRにはコミンテルン工作員や共産党員も暗喩し、米国IPRの容共・ラディカル・グループが対日非難を繰り広げていた。このグループの存在がマッカーシー旋風に巻き込まれる原因となり、IPRは解散へと追い込まれることになる。
マッカーシズムのターゲットになったのがIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長を務めたオーウェン・ラティモアであり、その余波が近衛を貶めたとされるE・ハーバート・ノーマンを直撃する。57(昭和32)年3月26、7両日に「赤狩り委員会」と呼ばれた米上院国内治安小委員会でノーマンをよく知る都留重人の喚問が行われ、その一週間後の4月4日にノーマンは47歳の若さで飛び降り自殺する。選ばれし者がいれば選ばれざる者もいる。まさにそういう時代だった。
■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(1)
1933(昭和8)年8月に行われた太平洋問題調査会(IPR)第5回バンフ(カナダ)会議に日本代表として参加することになっていた新渡戸稲造は出発前に昭和天皇から内々に招かれた。
昭和天皇は新渡戸に「軍部の力が強くなってきたが、アメリカと戦争になっては困る。あなたはアメリカと親しいから、『何とか話し合いで戦争を食い止めることができるよう、ひとつ骨折ってもらいたい』、ただ内密に」と話したとされる(『新渡戸稲造研究』第12号』)。
新渡戸に託した昭和天皇の願いは新渡戸の命と共に消えていった。新渡戸はバンフ会議が終わった後の静養中に病に倒れ、日本に戻ることなくカナダの地で没した。
IPRのような民間主導の自由主義者グループの源流を遡れば、ここでもまた新渡戸の姿が確認できる。そして現在のグローバリストの原点も見出せる。この自由主義的民間団体の戦前の流れを簡単に整理するとこのようになる。
大日本平和協会→在日アメリカ平和協会→日米関係調査委員会→日米関係委員会→太平洋問題調査会(IPR)
順番に見ていこう。01(明治34)年2月に来日したギルバート・ボールズは、麻布中学設立者にして社会運動にも尽力した江原素六衆議院議員に働きかけて、06(明治39)年4月に大日本平和協会を設立する。ここに江原の他、大隈重信、阪谷芳郎、渋沢栄一、島田三郎、尾崎行雄、それに新渡戸が名を連ね、政財界と言論界の有力者が集う日本初の自由主義派民間団体が生まれ落ちた。次いでボールズは在留米国人実業家や教育者や宣教師を集めた在日アメリカ平和協会を10年(明治43)年に設立する。
移民問題をめぐって日米間の緊張が高まる中、ボールズは一貫して排日運動反対の姿勢を貫き、日米の相互理解を目的に大日本平和協会と在日アメリカ平和協会の代表者を集めた日米関係調査委員会を設置、日本側委員会には渋沢、新渡戸、阪谷、添田寿一が選ばれた。この日米関係調査委員会の人脈をベースに、15(大正4)年に渋沢によって日米関係委員会が組織される。この委員会には日米関係調査委員会メンバーに加え、井上準之介、堀越善重郎、大倉喜八郎、金子堅太郎、串田万蔵、姉崎正治ら23名が就任する。この日米関係委員会人脈が日本IPRを支えていくのである。
ではギルバート・ボールズはどういう人物だったのか。
クエーカーの日本伝道はフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道教会によって1885(明治18)年に始まる。初代宣教師となったジョセフ・コサンド夫妻は芝普連土教会や普連土女学校の設立に尽力する。「普連土」は、津田塾大学の創立者である津田梅子の父・津田仙によって「普(あまねく)世界の土地に連なる」ように、即ち「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いを込めて命名されている。
普連土教会内部の信仰上の混乱と対立もあって、コサンドの後を継いで主任宣教師となったのがボールズである。保守派クエーカーのボールズは伝道に固執することなく、普連土女学校の校長、理事長としての職務を優先にしながら、平和運動に人生を捧げ、新渡戸同様「太平洋の橋」を目指した。
そもそもフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道教会の日本伝道には米国留学時代の新渡戸や内村鑑三の意見が取り入れられて開始されている。従って、新渡戸と内村が日本とクエーカーを接木したのである。新渡戸はクエーカーの「内なる光」に導かれた誠実さ、質素倹約の姿勢、一貫した平和主義に日本の古神道や武士道や禅との共通性を見出し、日本と溶け合うと信じたのだ。
■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(2)
ギルバート・ボールズは日米開戦直前に日本での40年に及ぶ宣教師生活を終え、帰米することを決意する。ボールズはこの時、普連土女学校理事長の後任を要請すべく手紙を書き送った。
「昨夜珍しく夢を見ました。私の住居(女学校のすぐそばにあった)の近所に大洪水があり、学校も住居も押流され、私もあっぷあっぷしていたところ、流れの向う側に澤田さんが現れ、助けにゆくからあわてるなといわれ、大喜びして目がさめました。」
この手紙を受け取った歴史に埋もれし澤田節蔵はボールズの後任として理事長に就任する。ボールズの夢に出てきた大洪水は終戦年5月25日の東京大空襲となって女学校を襲いかかった。学校は煙突と運動場隅の掘立小屋を残して全焼する。一時閉鎖の危機に瀕したが、澤田の意志もあって学校継続の方針が決められた。戦後、澤田はミス・ローズことエスター・B・ローズ、エリザベス・バイニング、そしてボールズの次男であるゴードン・ボールスと共に学校を再建して行く。
彼女達は戦後あっぷあっぷしている日本に救援品を届けるために故国へ窮状を訴え続けた。米国から届けられた食料品、衣料などを日本全国に配給したララ(LARA、アジア救援公認団体)代表の一人がミス・ローズである。そしてララ委員会日本側委員に澤田節蔵もいた。
ララの活動に対して日本側も官・民一体となって誠心誠意こたえた。盗難や横流しや不正配分などの不祥事はまったくといっていいほどなかった。ミス・ローズは日本側の厳格適正な姿勢に敬意と感謝を示し、この日本で活動できたことに誇りを持っていた。ミス・ローズは戦争中もアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)職員としてカリフォルニア州パサデナ地方の邦人抑留キャンプで待遇改善や学歴子女の東部大学への斡旋に奔走している。
「武士道」の言葉が持つ表面的な響きだけで新渡戸を論じる軽々しき日本人が左派にも右派にも増殖する今にあって、ミス・ ローズの生涯に新渡戸が思い描いた真なる武士道が重なり合う。
■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(3)
そして、彼らは大洪水の中から「象徴」によって昭和天皇を救い出した。これこそ最大の功績である。日本国憲法における象徴天皇制への新渡戸の影響はもはや疑いようがない。確かに諸説あるが、すでに研究者の間では「象徴」が新渡戸の英文著作『武士道』もしくは『日本』に依拠していたとする説が有力になっている。
岩波文庫版『武士道』の33ページと34ページを開いてみよう。ここにはっきり「象徴」と書かれている。
「我々にとりて天皇は、法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである。ブートミー氏がイギリスの王室について「それは権威の像(イメージ)たるのみでなく、国民的統一の創始者であり象徴(シンボル=原文もsymbol)である」と言いしことが真にあるとすれば、(しかして私はその真なることを信ずるものであるが)、この事は日本の皇室については二倍にも三倍にも強調せらるべき事柄である。」
『武士道』は1900(明治33)年1月にフィラデルフィアの出版社から英文で発刊され、セオドア・ルーズベルトにエジソンから最近では映画『ラスト・サムライ』のトム・クルーズにまで読み継がれてきた。日本の憲法に関わるのであればクエーカーでなくとも当然読んでいたに違いない一冊である。
このクエーカーに対する感謝の気持ちを誰よりも示したのは皇室である。二代にわたってクエーカーが皇太子殿下の英語教師に就いた。初代はエリザベス・バイニング、その後任がミス・ローズである。
バイニングは50(昭和25)年に勲三等宝冠章、ミス・ローズもララの功績に対し52(昭和27)年には勲四等瑞宝章、60(昭和35)年には勲三等瑞宝章をそれぞれ受章している。また、ゴードン・ボールスには58(昭和33)年に国際文化の交流と研究に対して勲三等旭日章が贈られた。
そして、クエーカーが主催するアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)はロンドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とともに47(昭和22)年にノーベル平和賞を受賞している。
それにしても因縁とは恐ろしい。国際連盟の設立時の初代事務次長に就任したのがクエーカーの新渡戸稲造、国際連盟最後の事務局長となったのもクエーカーの澤田節蔵である。さらに、戦後、初代国連大使になったのが澤田廉三である。
澤田廉三の『随感随筆』(牧野出版)には「明治43年7月第一高等学校卒業生」写真が掲載されている。その写真の最後列左から2人目に澤田廉三が、そして、一列目の中央に新渡戸稲造校長が写っている。
園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
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