■序文
本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。
薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。
これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。
かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。
本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。
日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。
戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。
この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。
平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である。
なお、本稿には日本国憲法における象徴天皇制及び戦争放棄に大きな影響を与えた新渡戸稲造とそのクエーカー人脈が再度登場する。さらに、歴史に埋もれたままになっている敬虔なクエーカー外交官も取り上げる。従って、「ビッグ・リンカー達の宴2」シリーズの続編としても位置付けたい。
岸の血を引き継ぐ長州8人目の安倍晋三首相からこの物語を始めたい。
■長州8人目の首相に向けられた二つの遺言
長州8人目の首相が誕生する。1885(明治18)年の内閣制度発足以来、長州は初代伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作(岸信介の実弟)の7名の歴代首相を生み出してきた。8人目の安倍晋三にとって岸信介は祖父、佐藤栄作は大叔父にあたる。
この7名に戦前の満州国の実力者として「二キ三スケ」と呼ばれた5人の人物を加えることで、安倍の長州人脈がより一層理解できる。二キは東条英機と星野直樹、三スケとは岸、松岡洋右、それに日産コンツェルンの創設者である鮎川義介を指す。岸、松岡、鮎川の三スケはともに長州出身の縁戚トライアングルとなっていた。
この岸の血を引き継ぐ安倍晋三の『美しい国へ』(文春新書)の発売日は7月20日、この日の朝に届けられた日本経済新聞に安倍晋三と縁戚関係にある松岡洋右の名前が登場、日本中が騒然となった。(『美しい国へ』の発売日から5日後、購入するために誤って「美しい国」で検索したところ、統一教会と国際勝共連合の会長を務めた久保木修己の遺稿集『美しい国 日本の使命』(世界日報社)が飛び出てくる。ここに「美しい国」の向かう先が暗示されているのだろうか。)
この日本経済新聞に掲載された昭和天皇が当時の富田朝彦宮内庁長官に語ったとされる富田メモの信憑性をめぐって様々な議論が巻き起こっているが、1944年7月16日付東条英機名文書で、靖国神社合祀基準を戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属に限ると通達していたこと(8月5日付共同通信)を考えれば、昭和天皇の不快感がA級戦犯ではなく、東条の示したルールを無視して勝手に合資を決めた旧厚生省や靖国神社に向けられていたとの見方も浮かび上がる。
とはいえ、昭和天皇独白録の中で松岡洋右を「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思われる」と厳しく批判していることから、昭和天皇は松岡と白鳥敏夫元駐イタリア大使が推進した日独伊三国同盟締結を戦略的な失敗だったと見ていたことを否定するのは難しい。
組むべき相手を間違えてはならないとの昭和天皇の思いが遺言同様の重みを持ってずしりと伝わってくる。
そして8月1日、旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)最後の頭取であった西村正雄が急死した。西村は故安倍晋太郎の異父弟で、安倍にとっては叔父にあたる。
この西村は『論座』7月号に「次の総理に何を望むか−経世済民の政治とアジア外交の再生を」とする論文を書いている。名指しこそ避けているものの明らかに安倍に向けられたものであり、ここでもまた松岡の名前が登場する。
『民主主義が陥りやすい欠点は、ポピュリズム政治である。特にテレビが発達した小選挙区制度の下では、その傾向が強くなりがちである。テレビに頻繁に出て、若くて格好良い政治家が人気を博する。また、中国の反日デモなどを機に「強い日本」を煽るナシャナリスティックな政治家がもて囃される傾向がある。このような偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家に課せられた大きな使命である。戦前、松岡洋右外相の国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結を当時のマスコミが歓迎し国民もこれを支持した結果、無謀な戦争に突入したが、最近似た傾向が出ていることは憂慮される。』
森田実によれば、死の直前、西村は安倍に宛てた手紙の中で「ここ(『論座』7月号)に書いてある内容は、君に対する直言であり、故安倍晋太郎が生きていれば恐らく同意見と思うので良く読むように」と伝え、更に次期総理は時期尚早、小泉亜流は絶対不可、竹中等市場原理主義者や偏狭なナショナリストと絶縁し、もっと経験を積むようにと言い込んだとのことである。
この西村の手紙は週刊現代の『安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈』シリーズでも取り上げられている。靖国神社が運営する戦史博物館「遊就館」の存在が米国との関係悪化につながるとしながら、「国家を誤らせる偏狭なナショナリストと一線を画すべき」と重ねて書いている。
テレビに頻繁に登場し、演説には大勢の女性が押し寄せ、偏狭なナショナリズムを抑えるどころか先頭に立って「強い日本」を煽り、『美しい国へ』で闘う姿勢を示した。
おそらく西村は安倍の親代わりとして、その行く末を松岡に重ね合わせていたのかもしれない。この西村もまた安倍に対して組むべき相手を間違えてはならないと警告していたのである。
まずは今まさに誕生した長州8人目の首相と偏狭なナショナリズムの接点となっていると思われる「長州の護国神社のような存在」としての靖国神社から歴史を振り返ろう。
■靖国における官軍と賊軍
1869(明治2)年、明治維新時の戊辰戦争で亡くなった官軍兵士を祀るために靖国神社の前身である東京招魂社が創建、これに尽力したのが長州の大村益次郎、1872(明治5)年に社殿(本殿)が完成し、正遷宮祭が執行された時の祭主は長州の山県有朋であった。1879(明治12)年に別格官幣社と列格されて靖国神社に改称、以後敗戦まで陸軍省と海軍省と内務省が管轄官庁となった。
山県は「日本陸軍の父」と言われた大村の意志を継ぎ、参謀本部を権力基盤に、長州の陸軍、薩摩の海軍という棲み分けを謀りながら、「陸軍のローマ法王」として陸軍の前期ほぼ50年を長州閥で実質支配した。またその派閥網を掌握しながら軍のみならず政界にも君臨、内閣製造者にして内閣倒壊者として桂、寺内、田中政権を生みだしていく。
この山県の権力も1921(大正10)年の宮中某重大事件で失墜、その翌年に死去し、以後長州閥全盛時代が崩壊していくかのように見えた。しかし、実際には政・官・軍・財へと人材が配置され、現在まで脈々と引き継がれてきた。その象徴となった地が戦前の満州国であり、ここで革新官僚を代表したのが安倍の祖父、岸信介である。
岸は関東軍参謀の秋永月三らの画策により、商工省工務局長から満州国に転出、満州国総務庁次長として「満州産業開発5か年計画」を実行に移し、満州を官僚統制経済システムの壮大な実験場にしながら、東条英機に接近していくことになる。
一方で官軍兵士を祀るための靖国神社には、朝敵であった会津白虎隊同様、南部藩士も庄内藩士も祀られていない。東条英機の父東条英教は南部藩士、陸大を最優秀の成績で卒業しながらも長州閥によって昇進が阻まれ、予備役中将として軍人の生涯を終える。東条の長州への恨みにも似た感情の背景には父の受けた仕打ちがあった。東条は永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次などとともに陸軍に蔓延る長州閥打倒、国家総力戦体制、統帥権の確立を目指して立ち上がる。
昭和の戦争の出発点は1931(昭和6)年の満州事変。その首謀者は石原莞爾と板垣征四郎とされる。石原の父は庄内藩士、板垣の父は東条と同じ南部藩士である。彼らは「賊軍」の汚名を晴らすべく軍閥を形成しながら昭和の戦争を主導し、戦後南部藩士の息子二人は絞首刑となった。
満州の地で長州と反長州が「二キ三スケ」として結合し、親密な関係を築いていく。一時ではあるが確かに「官軍」と「賊軍」の立場が入れ替わっていた。二人を結びつけたのは岸の関与したアヘン密売によるカネの力であったとする説が今なお語り継がれている。しかし、岸と東条の関係も長くは続かなかった。
東条の引きもあって東条内閣の商工大臣となった岸も、劣勢への対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼国務相)に降格されたことから東条との関係が悪化、サイパン島陥落(1944年7月)によって戦争継続を不可能と判断した岸と本土決戦覚悟で戦争継続を目論む東条との対立が決定的となり、岸の辞任騒動に発展、これをきっかけに東条内閣は総辞職に追い込まれる。
■長州系宮中グループの中心人物
この時、岸信介の背後から「反東条・倒閣」を指示していたとされる黒幕が木戸幸一内大臣である。
木戸の父・来原孝正は長州閥の巨頭・木戸孝允(桂小五郎)の実妹・治子と吉田松陰の親友としても知られる長州藩士・来原良蔵の長男として生まれ、後に木戸家を継いで木戸孝正となった。この孝正と長州ファイブの山尾庸三の娘・寿栄子の間に生まれたのが幸一であり、その妻・鶴子は日露戦争の英雄、児玉源太郎陸軍大将の娘である。長州エスタブリッシュメントの血を受け継いだ木戸こそが長州系宮中グループの中心にいた。
近衛内閣総辞職後、木戸は天皇の側近中の側近としての立場を利用しながら、皇族内閣に反対し、対米強硬派である東条を強く推した。昭和天皇への忠勤ぶりが目立つ東条を昭和天皇の意思が直接伝えられる首相に起用することで戦争回避に道が開ける。この木戸の甘い判断は、皮肉にも自らが岸を使って東条内閣を崩壊させるという結末を生んだ。
戦時中、木戸は「宮中の壁」となって重臣らの声を昭和天皇に届けようとしなかった。戦後木戸の残した日記は戦後連合国軍総司令部(GHQ)が戦犯容疑者の被告選定に活用されたが、この木戸日記は軍人被告らに対して不利に働き、陸軍軍人からは蛇蝎のごとく嫌われた。
敗戦時の国務長官にして玉音放送の際の内閣情報局総裁を務めた下村宏(下村海南)は、戦後間もない昭和25年5月に出した『終戦秘史』で、当時の宮中グループについて次のように書いている。
「私はまず近衛(文麿)、木戸という一線が牧野(伸顕)、湯浅(倉平)、鈴木(貫太郎)の一線に取って代わったということを指摘したい。近衛、木戸が軍を迎合せぬまでも軍と手を握った。軍の方から彼等をオトリにつかったという事実は否定できない。そこに近衛、木戸を引き立てた老境に入りし西園寺(公望)公にも責任の一端がある。」と指摘し、さらにこう続ける。
「木戸内府としての欠点は、この重大危機に当り、衆智をあつめて熟慮断行しなかったことである。歴代の内府にくらべて政府へ口ばしを入れすぎた。ことに人事の差出口が多く、相当長州閥のにおいも鼻についたことである。しかも牧野内府時代にくらべ、陛下への周囲のみぞを深くしたことである。さらに国家存亡の渡頭に立ち内府の重責に在り、しかも確乎たる信念を立つるあたわず、信念有るもまたこれを堅持するあたわず、東条内閣の策立を容認したことである。」
軍の方が木戸らをオトリに使ったのだろうか。むしろ、戦後の境遇を考えれば、木戸と長州閥のにおいがする岸らが軍をオトリに使ったようにも見える。東条らは木戸によって担がれ、踊らされ、ぶつけられ、最後にバッサリ切り捨てられたとの見方もできる。
その理由として、岸は巣鴨拘置所で行われた国際検察局(IPS)の尋問で、木戸との「特別の信頼関係」に触れつつ、東条内閣総辞職に果たした役割を特に強調しているからだ。「反東条・倒閣」を自己正当化のために最大限にアピールしていたのである。
この木戸周辺の策略によって近衛文麿が自殺に追い込まれたとする工藤美代子の『われ巣鴨に出頭せず』(日本経済新聞社)が注目されている。
園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
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