司馬遼太郎さんの小説『菜の花の沖』を読んでいてなるほどと思わせる一節があった。19世紀、日本がまだ開国に到らない時期、淡路島の水夫から身を起こし、蝦夷地と上方とを結ぶ大回船問屋に発展させた高田屋嘉兵衛の一生を描いた小説で、愛国心ということについて語っている。
「愛郷心や愛国心は、村民であり国民である者のたれもがもっている自然の感情である。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それに対してことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」
なにやら昨今の日中韓でのいがみあいに似てはいないだろうか。そのむかし筆者も日本ほど愛国心の足りない国民はいないのではないかと嘆いたことがある。だが、このところ台頭している“愛国”的言動についてはちょっと待てと言いたい。司馬さんが書いているように「ことさら火をつけようと」しているような気がしてならないからだ。
司馬さんは小説の中で主人公の嘉兵衛に「他の国を譏(そし)らないのが上国だ」とも言わせている。なかなか含蓄がある。中韓が日本を譏り、そして日本が中韓を譏る。そんな構造が生まれている。
靖国参拝問題で小泉純一郎首相が偉いと思っていたのは、これまで中韓の批判に対してほとんど何も言わなかったことだった。他国の批判を無視することはなかなか難しい。腹も立つこともあるだろうに、じっと我慢しているのだろうなと考えていた。
ところが、つい最近になって小泉首相は中韓の批判にまともに反応するようになった。4日の年頭会見で「外国政府が心の問題にまで介入して外交問題にしようとする姿勢が理解できない」と語ったのだ。
朝日新聞はよく5日朝刊の社説で「私たちこそ理解できぬ」と首相発言を問題視した。それに対して産経新聞がさらにかみついた。朝日が「全国の新聞のほとんどが参拝をやめるよう求めている」と書いたことに対して産経抄は「読み返すほどに身震いがくるような内容」と怒りをあらわにした。「『全国の新聞が………』というのは誤植ではないかと何度も読み返した」「『私たち』とは誰なのか」とほとんど煮えくり返る思いのたけをコラムのたたきつけた。
どっちもどっちだ。中韓におもねるほど非国民にはなりたくはないが、だからといってこんなことで愛国心に火をつけられてはかなわない。期待として日本はアジアの「上国」でありたい。
もちろん「上」は上下の上ではない。品性といった意味合いである。
|