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アインシュタインと日本 Part 2

2005年06月26日(日)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)
 筆者は萬晩報2月28日に「アインシュタインと日本」という文章を書かせていただいた。その中で、インターネット上に広まっている【アインシュタインの予言】なる文章は創作であることを指摘した。
http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

 筆者がこれを虚構と判断する理由は、

(1)どこにも確固たる典拠がない。
(2)内容がアインシュタインの思想と矛盾する。

という2点である。

 ところがその後も、この【予言】をアインシュタインの真実の言葉だと思いこむ人があとを絶たないようだ。6月になって、立て続けに数冊の雑誌でこの予言が真実のものとして引用されているのを見て驚いた。

 これはまことに困った事態である。日本人がこのような作り話を信じていることが海外にまで知られれば、「日本人はアインシュタインの名を騙ってまでそんなに自国を自慢したいのか」というように、日本人への軽蔑に転化しかねないからである。筆者は日本人の一人として、日本人が笑いものにされるのはうれしくない。したがって、その内容がいくら「親日的」であろうと、日本への嘲笑につながりかねないこの偽予言を、このまま放置しておくことはできないと考えている。

 筆者は前稿において、

「このような創作は、明らかに清水氏に始まったものではなく、相当以前から行なわれている。その最初の出どころがどこなのか、ぜひとも知りたいものである。何かの情報をお持ちの方は教えていただければ幸いである」

とお願いしたのだが、数名の読者の方から、著書名やインターネットのサイトなど、貴重な情報をお寄せいただいた。この場をお借りして、あらためて感謝申し上げたい。

 アインシュタインは科学者であった。彼は真理を追い求めて、あらゆる虚偽から自由であろうと欲した。そのアインシュタインの名において嘘を語ることは、アインシュタインへの冒涜である。この【予言】が虚構であることは前稿で十分に論証されていると思うのだが、その後の調査も含めて、ここで再論することにしたい。結論から先に言うと、これが虚構であることはより明確になった。

 ■【アインシュタインの言葉】の「フル・ヴァージョン」

 さて、この【予言】の文言は、掲載されている場所(インターネット、雑誌、本)によって、かなり異なっている。まず、その長さが違う。あるものは冒頭の部分が欠けている。別のものは、末尾が欠けている。個々の言葉づかいも微妙に違う。ここでは最初に、その最も長いヴァージョン、いわば「フル・ヴァージョン」をあげておこう。とはいっても、これが「真正(オリジナル)」の言葉だと誤解してほしくない。これから論証することになるが、もともとオリジナルの【アインシュタインの言葉】など存在しないのである。比較の一つの基準とするためである。そして、個々の文には番号をふることにする。

[1] 近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
[2] この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。
[3] 果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。
[4] この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。
[5] 私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
[6] なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。
[7] その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
[8] この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。
[9] 世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
[10] それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
[11] 吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを・・・・

★出典:河内正臣著『真実のメシア=大救世主に目覚めよ』(山手書房新社、1992年)、66頁。ただし、原文における空白(スペース)は句読点で置き換えてある。また読点の位置や助詞の使い方や言葉づかいにややおかしなところもあるが、原文のままにしてある。

 河内氏の著書にも、もちろん出典は書かれていない。巷間に広まっている諸々の【アインシュタイン予言】の共通した特徴は、その出典が不明なことである。

 著者の河内正臣氏(昭和16年生まれ)は、天皇が真実のメシアであり、日本人が天皇の真の姿に目覚めたとき、日本国内の思想的対立が解決され、平和の中心国としての日本の役割が明確化され、世界が平和になる、という立場で活動している天皇主義の平和運動家である。やや神がかった氏の主張であるが、その中で最も衝撃的なのは、憲法9条が昭和天皇の発案であり、マッカーサーは昭和天皇の意志を受けてこの条項を憲法に書き込んだ、というテーゼである。

 本論は「アインシュタインの予言」に焦点を絞っているので、河内氏の議論には深入りしない。ご関心の向きは、以下を参照されたい。
http://www.geocities.jp/ennohana/koutitenno.htm

 さて、この「フル・ヴァージョン」を基準に、いろいろな引用を測定することができる。たとえば、前稿で紹介した清水馨八郎氏の『「日本文明」の真価』(祥伝社黄金文庫、平成14年=2002年、258頁)では、[2]と[3]が欠けている。これらは、清水氏の議論に不都合な箇所ではない。むしろ補強する議論である。にもかかわらず、この部分が欠けていることは、清水氏が依拠した文献でも同じ箇所が欠けていたことを示唆している。

 ■名越二荒之助著『新世紀の宝庫・日本』

 次に取り上げたいのは、名越二荒之助氏の『新世紀の宝庫・日本』という本である。この本は多くの引用の元になった可能性がある。筆者が最近目にした雑誌でも、名越氏が引用元として言及されていた。

 名越氏(大正12年生まれ)は高千穂商科大学前教授。家永教科書裁判では国側証人となった。現在は「新しい歴史教科書を作る会」にも関わっているようである。詳しくは以下を参照されたい。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/nagoshi.htm
http://tendensha.co.jp/event/news3.html

 まず最初に、この稿は、名越氏の思想や、氏の人格や、「新しい歴史教科書を作る会」を批判するためのものではない、ということを断っておきたい。主題はあくまでも【アインシュタインの予言】の真偽である。真実の解明である。

 本書は、諸外国との比較によって日本文化の長所を述べる日本文化論の一種である。個々の記述には興味深い点もあるが、イザヤ・ベンダサン(山本七平)をユダヤ人と信じているなど、今日では明らかに時代遅れの内容になっている。学問的な議論においては、誤りや根拠なき思い込みは正されなければならない。その点では名越氏には鋭い批判が向けられるが、専門分野は違うとはいえ、同じ学徒である名越氏は筆者の批判を理解してくれるものと信じている。

 名越氏はこう書いている。

《アインシュタインは大正11年、日本の「改造社」の招きで来日しています。11月16日(ママ)夫妻(ママ)と共に北野丸で神戸に上陸。時に博士42歳(ママ)、ノーベル賞の決定した直後でした。国会図書館で当時の記録を調べると、彼が日本の朝野でいかに盛大な歓迎を受けたかがよく判ります。12月26日(ママ)までちょうど40日間滞日し、慶応大学、神田の青年会館、東大その他で講演し、奈良、京都等にも旅行しています。その間すっかり日本通となり、日本のすべてを適確(ママ)に掴んでいます。彼の日本観は誠に卓抜で、当時の日本人がいかに日本を知らないかがよく判ります。いちいち紹介することはやめて最も印象に残る言葉をお伝えしたいと思います。
 【引用・アインシュタインの言葉】
 彼はヴァイオリニストでもあり詩人でもあって、この感想は詩的な韻律さえたたえています。
 この言葉は今村均著『祖国愛』に、次のような後日譚と共に紹介されています。第二次大戦後同博士を訪ねた稲垣守克氏が次のような質問を発しました。
 「独裁制の国家を混えても、世界政府を樹立することは可能だと考えられますか」
 それに対して博士。
 「我々は科学によって原子力の秘密まで発見したではないか。社会原子力ともいうべきものもある筈だ。大いに頭をしぼりなさい」》

★出典:名越二荒之助『新世紀の宝庫・日本』(日本教文社、初版昭和52年=1977年。参照したのは昭和57年・第13版)、102-3頁。ただし、漢数字はアラビア数字に直してある。

 名越氏の記述には多数の間違いがある。日付などの具体的データを、前稿のアインシュタイン来日時の記録と比較してほしい。まずこの点に、名越氏の杜撰さが現われている。あらためて確認すると、来日は11月17日、離日は12月29日、滞在日数は43日、アインシュタインは来日当時43歳だった。

 名越氏のために弁護するならば、名越氏の著書は、金子務氏の『アインシュタイン・ショック』(1981年)よりも前に執筆されている。「日本におけるアインシュタイン」というテーマに関する必読書であるこの著作を参照していたら、こんな初歩的な間違いをおかさないですんだであろう。なお、金子氏の書は2005年3月に岩波現代文庫として再刊され、入手しやすくなっている。

 名越氏の引用はフル・ヴァージョンであるが、各所で河内氏の引用とは文言が違う。とくに[4]は、「この永い歴史を通じて、一系の天皇を戴いたという比類なき国体を有することが、日本をして今日あらしめたのである」となっていて、「比類なき国体」という語が付け加わっている(あるいは、河内氏からはこの部分が欠落している)。このように、引用者によって文言が違うのも、【アインシュタインの言葉】の特徴の一つである。

 一読しただけでは気づかないかもしれないが、ここでは巧妙な議論のすり替えが挿入されている。

 名越氏は「国会図書館で当時の記録を調べると」と書いている。国会図書館で調べれば、当然、その当時の多くのアインシュタインのコメントが収集できただろう、と読者は想像する。次に氏は、「いちいち紹介することはやめて最も印象に残る言葉をお伝えしたいと思います」と書く。この前置きによって、次に引用される【アインシュタインの言葉】が、あたかもその収集資料の中の一部であったかのように、読者は錯覚する。

 ところが、この言葉は、名越氏が国会図書館で調べた資料の中ではなく、今村均著『祖国愛』の中にあるのだ! 名越氏はなぜ、当時の新聞や雑誌といった、氏が苦労して調べたはずの資料ではなく、今村氏の著書から引用するのだろうか? その理由はただ一つ、国会図書館の資料の中には、その言葉が見つからなかったからにほかならない。

 国会図書館で1922年当時の資料の中から、求めるアインシュタインの言葉が掲載されている資料を見つけることは、いわば巨大な干し草の山から一本の針を見つけるような困難な作業である。そのような調査の末にこの言葉の出典がわかったら、何をおいてもそれを発表したいと筆者なら考える。名越氏とても同様であろう。それが学者というものである。しかし、名越氏にはそれができなかった。なぜなら、そんな言葉は当時の資料のどこを探しても存在しなかったからである。

 筆者なら、「1922年当時の資料を調査はしたが見つからなかったので、信憑性はないが、参考のためにほかの文献から引用する」と書くだろう。しかし、名越氏はそうはしなかった。氏にとっては、この言葉は真実でなければならなかったのである。見つかりはしなくても、どこかに必ず存在するはずである、というのが氏の信念であった。なぜなら、アインシュタインのように偉大な科学者であれば、わが国の「比類なき国体」を賛美しないはずはないからである。そこで、手元にあった別の文献から引用することにした、というわけである。だが、これは学者としては誠実な態度とは言えない。

 名越氏も認めるように、「この感想は詩的な韻律さえたたえて」いる。そもそもこの予言はあまりにもこなれた日本語である。あたかもアインシュタイン自身が日本語で書いたかのようである。1922年に来日したとき、彼の使った言語は、言うまでもなくドイツ語である。しかし、この【言葉】のドイツ語原文は存在しないし、翻訳者名もわからない。最初から日本語ヴァージョンしか存在しないのである。

 アインシュタイン研究の専門家・金子務氏や杉元賢治氏は、ドイツ語の原文が残っている文章は(ドイツ語原文が失われているものもある)、ドイツ語からこなれた現代日本語へ訳し直しているが、当時の新聞・雑誌に載った翻訳は、おしなべてきわめて生硬な直訳調である。たとえば、前稿で紹介した、『大阪朝日新聞』に12月28日に掲載されたアインシュタインの別れの言葉を読んでほしい。さらに、この【予言】が1922年当時の文献に載っていたのであれば、当然、旧仮名遣いのはずだが、私が見た例では、すべて新仮名遣いである。このような文体的特徴からも、この【予言】は、1922年よりかなりあとになって、最初から日本語で書かれたものとしか思えないのである。

 ■今村均著『祖国愛』

 名越氏の著書は出典を明記している。その点だけは高く評価したい。

 次に、名越氏があげる今村均著『祖国愛』を調べてみた。

 今日では今村均という名前を知る人も少ないかもしれない。今村均(1886-1968)は、インドネシアを植民地支配していたオランダを短期間で打ち破った名将である。彼はインドネシア人からも敬愛される仁恕の人であり、聖書と歎異抄を心の支えとした信仰の人でもあった。そして戦後は、オーストラリアやオランダによる軍事裁判で、自分を唯一の有責者として部下のすべてをかばおうとした責任の人であった(角田房子『責任・ラバウルの将軍今村均』新潮社)。

今村均将軍について:
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog045.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog046.html

 『祖国愛』は、戦後の日本をおおう、日本を侮蔑する左翼的マスコミ論調に抗して、祖国を愛することの大切さを説いた本であるが、その中で【アインシュタインの言葉】が引用されている。この本には、昭和31年=1956年の日本文化協会版と、昭和42年=1967年の甲陽書房版の2種類がある。両版の間には若干の相違があるが、アインシュタインに関する記述はほぼ同一である。そこで今村氏はこう書いている。

《大科学者であり、ユダヤ人であり、そして世界は一国であるべきことを理想としたアインシュタイン博士は、今より34年前〔四十余年前〕の大正11年、その43歳の頃、我が"改造"雑誌社〔わが雑誌「改造」社〕の招聘に応じ〔て〕、夫人同伴〔で〕、日本にやつてこ〔来〕られ、仔細に観察をと〔遂〕げたのち、次の声明を発表し"改造"〔「改造」〕及び多くの新聞が、それを記載した。
 【引用・アインシュタインの言葉】
 かく云〔い〕つた博士は――原子力の爆弾原動力としての可能を、米大統領に答えた一人であり、臨終の時は、大きくこれを懺悔して逝つたものだが――第二次大戦終了後、同博士を訪ねた稲垣守克氏が、
 「独裁制の国家を交えても、世界政府を建立することは、可能のものでしようか〔?〕」
と質問したのに対し、
 「われわれは、科学によつて原子力の秘密までを、発見し得たではないか。社会原子力とも云〔い〕うべきものもある筈だ。大いに頭をしぼりなさい」
かように答えたそうである。》

★出典:今村均『祖国愛』(日本文化協会、昭和31年)、89-92頁。漢数字はアラビア数字に直してある。なお、甲陽書房版(39-40頁)では、文言が変更されている部分があったので、それは〔 〕に示した。促音の「つ」は、甲陽書房版では「っ」と現代語的に表記されている。また、引用されている【アインシュタインの言葉】も両版では、文言の上では若干の違いがあるが、内容的に重大な相違はない。

 今村氏が、「〔アインシュタインが大正11年に〕次の声明を発表し"改造"及び多くの新聞が、それを記載した」と書いているのは、事実無根である。雑誌『改造』が掲載し、有名になったのは、前稿でもその一部を紹介した、来日2週間目に雑誌『改造』のために書かされた「日本における私の印象」というエッセイであるが、この中には、天皇や日本の国体に対する言及はない。

 もし日本の国体を賛美する【アインシュタインの言葉】が当時、『改造』や「多くの新聞」に広く「記載」されたのであれば、当然すぐに見つかるはずであるが、これまでのところ、そういうものはどこにも見つかっていないのである。

 今村氏が引用している【アインシュタインの言葉】はフル・ヴァージョンではない。[9,10,11]が欠けている。

 今村氏が不完全ヴァージョンを掲載したのは、参照元がもともと不完全ヴァージョンだったのか、それとも氏が[9,10,11]を不必要として引用しなかったのか、それは、今村氏が出典を書いていないので、判断できない。しかし、もし参照文献にそれがあれば、今村氏の著書の趣旨からして、氏がそれをわざわざ省くとは想像できない。おそらく、参照元にも[9,10,11]がなかったのだろう。

 また、今村氏の引用が、参照文献の文章と同じなのか、幾分か文言が変更されているのかも判定のしようがないが、後述するように、今村氏は引用の正確性を期する人ではないので、おそらく若干違っているものと思われる(そのことは、昭和31年版と昭和42年版で【言葉】の文言が違っているところにも見えている)。

 『祖国愛』は1956年に出版された。アインシュタインは前年の1955年に死去している。今村氏がこの本を執筆していたころは、アインシュタインに関する記事が新聞・雑誌にあふれていただろう。今村氏はその中の一つに、【アインシュタインの言葉】を見つけたものと推測される。そして、その中では、「この【言葉】は1922年のものであり、当時の新聞・雑誌で広く紹介された」、と語られて(騙られて)いたのであろう。しかし、学者ではない今村氏が、その嘘を見抜けなかったことは、やむをえないことであったと思う(名のある学者でさえ、本ものと信じているのだから)。

 ■稲垣守克氏のアインシュタイン訪問

 今村氏が『祖国愛』で言及している稲垣守克氏は、前稿でも紹介した、1922年にアインシュタインの通訳をし、戦後は「世界連邦建設同盟」を設立した例の「ガキ」である。

 稲垣氏が戦後最初にプリンストンのアインシュタインを訪問したのは、昭和24年=1949年11月である。稲垣氏はこのあとさらに2回アインシュタインに会っているという(金子務著『アインシュタイン・ショック(2)』河出書房新社、251頁)。1949年の訪問記は、『東京毎日新聞』昭和24年12月4日朝刊の「アインシュタイン博士を訪ねて」として発表された。

 今村氏がオランダの軍事裁判で無罪の判決を受け、日本に最初に帰国したのは昭和25年=1950年1月22日である。彼は、わずか1ヶ月、巣鴨戦犯刑務所にいただけで、あえて志願してマヌス島のオーストラリアの戦犯収容所に入った(日本を離れたのは同年2月21日)。マヌス島から解放されて日本に帰国したのは1953年である(今村氏に関する以上の情報は、角田氏の前掲書による)。今村氏は、1950年1月〜2月の巣鴨暮らしのころには、稲垣氏のアインシュタイン訪問については知りえなかっただろう。

 今村氏の稲垣氏に関する記述の情報源は、1955年のアインシュタインの死去に際して、『毎日新聞』4月20日朝刊に掲載された稲垣氏の追悼文「アインシュタイン博士の言葉」である。稲垣氏のオリジナルの文章は、今村氏の引用とは違うので、ここにあげておこう。

「博士と会うごとに、話の中心は世界政府論である。私は独裁制の国家を変えての世界連邦が可能であるかという点についてその考をただした。先生は『我々自然科学者は、遂に原子力の秘密をとらえたではないか。社会科学においても社会原子力とでもいうものがあるはずだ。大いに頭をしぼれば、そこに必ず解決の道はあるであろう』と、大いに激励してくれた。」(金子氏前掲書、273頁)

 稲垣氏は、「独裁制の国家を変え」なければ世界連邦は実現しない、と考えているのに対し、今村氏は「独裁制の国家を交えて」と誤解している。

 『毎日新聞』の稲垣氏の文が、今村氏によって引用され、それが名越氏によって再引用されるにつれ、どのように変化しているかを確認していただきたい。ここからも、「引用時の改変」こそ、【アインシュタインの言葉】の多様性の原因であることが推測できる。

 ■名越氏の典拠

 さて、今村氏が引用する【アインシュタインの言葉】と名越氏が引用する【アインシュタインの言葉】の間には、読者の皆さんもお気づきであろうが、看過できない重大な相違がある。名越氏の参照元であるはずの今村氏の【言葉】が不完全ヴァージョンであるにもかかわらず、名越氏の【言葉】はフル・ヴァージョンである。[9,10,11]は明らかに名越氏によって付け加えられたものである。

 これはどういうことであろうか? 二つの可能性が考えられる。

(a)名越氏が[9,10,11]を創作して、付加した。
(b)名越氏の参照元は今村氏ではなく、別にあった。

 名越氏は、学者としての誠実性・正確性に問題があるとはいえ、(a)を行なうほどの「詩人」ではない。というのは、次項でも見るように、名越氏の『新世紀の宝庫・日本』が書かれた1977年には、すでに[9,10,11]が存在していたことが、別の文献から明らかになるからである。

 今村氏の著書からは、【アインシュタインの言葉】の不完全ヴァージョンが、遅くとも1956年までには存在していたことがわかる。名越氏の著書が出版された1977年には、もう相当広まっていたはずである。名越氏は別の文献に出ていたその【言葉】を、自分の著書に引用したのであろう。

 名越氏の本来の典拠が今村氏の著書でないことは、[9,10,11]以外の文の比較からも明らかになる。ここでは、漢字や句読点以外の、[8]に見られる、内容的にも重要な相違点を指摘しておこう。

【今村氏】この世界の盟主なるものは、武力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、最も古い、且つ貴い家柄の者でなくてはならない。
【名越氏】その世界の盟主は武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、また尊い家柄でなければならぬ。

 名越氏では、今村氏には欠けている「金力」があり、今村氏の「貴い家柄の者」が「尊い家柄」になっている。また、今村氏がアインシュタイン来日時の年齢を「43歳」と正しく記しているのに、名越氏は「42歳」とわざわざ間違えている。名越氏が今村氏の著書から使ったのは、稲垣氏に関する部分だけではなかったかと思われる。

 筆者の推理はこうである――名越氏の本来の典拠は『祖国愛』ではなく、別の文献であった。あるいは、その別の文献と『祖国愛』を混ぜ合わせたのである。しかし、名越氏はその文献名をあげることを避けた。というのは、その文献は、学者が著書で言及するにははばかられるような、マイナーな文献であったからである。そこで氏は、今村均という偉大な軍人の著書のみを自分の典拠として引き合いに出し、今村均の権威で自分の引用に箔をつけようとしたのである。

 ■谷口雅春の『理想世界』

 1977年以前に[9,10,11]が存在していたことは、『理想世界』という雑誌に掲載された谷口雅春氏の論説から明らかになる。

 谷口雅春 (1893-1985)は当初、出口王仁三郎の大本教の信者であったが、そこから離脱し、「生長の家」という新たな宗教団体を創設した。出口が皇室への不敬を理由に官憲の大弾圧を受けた(2回にわたる大本事件)のに対し、谷口は戦前・戦中は天皇信仰を強調し、日本の戦争遂行に積極的に協力した。戦後も天皇信仰は揺るがず、「生長の家政治連盟」という組織を通じて、保守系の政治家と深く結びついていた。「生長の家」の特徴の一つはその旺盛な出版活動であり、名越氏の『新世紀の宝庫・日本』の出版元である日本教文社は、そのために設立された出版社である。ただし今日では、「生長の家」とは直接関係のない、精神世界系の書物も多数扱っている。

生長の家と谷口雅春氏について:
http://www.sni.or.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6

 『理想世界』は「生長の家」の機関誌の一つであるが、その昭和41年10月号に、谷口雅春氏は「日本への回帰(一)」という論説を書いている。

《相対性原理の発見者として世界的数学者であり、物理学者であるアインシュタイン博士は、世界連邦が実現し世界政府が樹立せられた場合、誰をその宗主に頂くかということについて、次のごとく述べているのである。
 【引用・アインシュタインの言葉】(天中会本部発行『天中』第1巻第1号26頁より)
 アインシュタイン博士は直観によって相対性原理も、日本国の実相も発見したのである。》

★出典:『理想世界』(日本教文社)昭和41年=1966年10月号、31頁。漢数字はアラビア数字に直してある。

 尊敬する教祖が書いたのだから、その宗教団体の信者はことごとくこの【言葉】を真実のものとして信じ込んだことだろう。しかも「生長の家」はかなり信者数の多い教団である。

 引用されている【アインシュタインの言葉】は不完全ヴァージョンで、[1]から[5]が欠け、[6]から[11]までである。[6]の冒頭の「なぜならば」は欠けており、「世界の未来は」から始まっている。

 1966年に書かれたこの論説にはすでに、名越氏が使っている[9,10,11]が存在している。したがって、名越氏が[9,10,11]を自分で創作したのではないことが判明する。ただし、両者は、同じ日本教文社の印刷物に掲載されていて、両者の思想傾向が似ているとはいえ、名越氏が谷口氏の論説を利用したとは思えない。というのは、両者の文言がかなり違うからである。

【谷口氏】幾度びも争いは; 人類は; 誠の平和; 歴史を抜き越えた
【名越氏】幾度も闘争が; 世界の人類は; 真の平和; 歴史を超越した

 相違はほかにも多数あるが、これ以上は必要ないであろう。

 このような文言の違いは、アインシュタインの原文があって、それを各人が翻訳する際に生じたものではない。先述したように、ドイツ語の原文はどこにも存在しない。筆者の現在の仮説は、この【言葉】には「原初の創作」があり、それを多くの人々が引用・再引用・再々引用・・・するうちに――意図的か書き誤りかはさておき――様々の改変がほどこされ、現在のような文言に成長してきた、というものである。そのため、この【言葉】は引用者によって長さも文言もまちまちなのである。現在、巷に出回っている種々のヴァージョンは、そういう改変をへて出来上がったものであるので、「原初の創作」とはかなり違っているのかもしれない。

 谷口氏が参照したのは『天中』という雑誌である。この雑誌は国会図書館にも所蔵されていないが、筆者はインターネットの古書店で検索し、1冊だけ入手することができた(便利な世の中である)。それによると、この雑誌は河野利江なる人物が主幹の、右翼愛国主義的な団体の機関誌である。天中会本部は新潟市にあった。河野利江は歌人の会津八一(新潟出身)と親しい人物であったようだが、それ以上の詳しいことはわからない。天中会は現在ではおそらくもう消滅しているものと思われる。

 谷口氏が参照元の雑誌の頁数まであげて、いかにも学術的な装いをこらしてみても、その雑誌が、海のものとも山のものともわからない団体の機関誌では、この【言葉】がアインシュタインのものであることの何の証拠にもならない。

 筆者が入手したのは昭和49年3月号で、第14巻と書かれている。これから逆算すると、『天中』第1巻第1号は昭和36年=1961年の発刊である。これは今村均著『祖国愛』よりも5年もあとであるから、そこに掲載された【アインシュタインの言葉】も、当然、河野氏の創作ではなく、別の文献からの引用に違いない。『天中』に出典が明記されていれば、学術的正確さを好む谷口氏であるから、きっとそちらの典拠を書いたことだろう。それがないということは、『天中』にも出典は書かれていなかったものと推測できる。

 ■世界連邦の盟主?

 谷口氏は、【アインシュタインの言葉】を1922年来日の文脈から切り離し、それを世界連邦の文脈に移し換える。これもまた新たな創作である。

 アインシュタインが最初に世界政府構想をいだいたのは、ナチスの台頭に強い危機感を覚えた1932年ころである。来日した1922年よりも10年もあとのことである。このころ彼は、「ナチスの暴力を抑えるためには軍事力を持つ世界政府の樹立による救済しかあり得ない、という考えに傾いていった」のである(金子氏前掲書、241頁)。ヒトラーが政権を取った1933年に、彼はアメリカに亡命した。

 アインシュタインは昭和9年=1934年の『改造』に「平和のために」という論文を寄稿している。その中で彼は、

「平和主義的努力に対する最大の危険は、軍人階級あるいは戦争に経済的な利害を持つ階級による敵対や圧迫にあるのではなく、大部分の平和主義者の、目標はXXによって達成され得るという幻想にあるのです」(金子氏前掲書、243頁)

と述べている。「XX」はドイツ語の原文でも伏せ字にされているということであるが、おそらくは「Entwaffnung(武力放棄)」であろう。軍備を撤廃しさえすれば世界は平和になるという考えを、この当時のアインシュタインは「幻想」として退けている。

 広島・長崎以前のアインシュタインは、武力を肯定する戦う平和主義者であった――とくにナチスに対して。このことが、のちにルーズヴェルト大統領への原爆製造の進言につながるのである。

 改造社社長の山本実彦氏は、日米開戦の前年の昭和15年=1940年にプリンストンのアインシュタインを訪ねている。そのとき、アインシュタインは山本に、

「日本人は個人としては正直でもあるし、親切でもあるが、国家的に仕事をするときにはあまりにかけ離れたことをする、そのコントラストがひどすぎる、なぜ、国として動くときそんなにも他の国々に嫌はれる様なことをせなくてはならぬか」(金子氏前掲書、246頁)

と語っている。ここには、満州事変以降の日本の対外侵略、国際連盟からの脱退、そしてナチス・ドイツとの同盟などに対する批判が感じられる。このようなアインシュタインが、日本が「世界の盟主」になることを期待するはずはない。前稿でも述べたように、アインシュタインが日本で感銘を受けたのは、美しい自然と芸術、そしてやさしい国民性であり、天皇(大正天皇はお病気がちで、来日したアインシュタインは天皇に対して何の印象も持ちえなかった)でも国家としての日本でもなかった。

 「盟主」は、ドイツ語では「Fuehrer」か「Oberhaupt」であろう。「Fuehrer」とは、ヒトラーの称号「総統(フューラー)」と同じ語である。アインシュタインがこんな語を使って日本を賞賛することは絶対にありえない。

 日本への原爆投下という悲劇に直面し、核兵器による人類滅亡の危機を憂慮した第二次世界大戦後に、彼はいっそう強く世界政府運動にのめり込むようになった。稲垣氏の世連運動はそれと連動している。だが、世界連邦と「世界の盟主」がどう両立するのであろうか? 連邦のトップに立つ者は「盟主」でも「宗主」でもなく、「大統領」であろう。アインシュタインは、人類が世界の盟主を選出し戴くことが世界の問題の解決になるなどという、そんな単純なことを考えてはいなかった。そんなことを考えていたのなら、稲垣氏の質問に、「大いに頭をしぼれば、そこに必ず解決の道はあるであろう」などとは答えず、「日本の天皇を世界の盟主にする運動を起こしなさい」と答えたはずである。

 【アインシュタインの言葉】はアインシュタインの思想と矛盾するのである。

※アインシュタインの「世界政府」は必ずしも「世界連邦」と同じではなかった。この点については、金子氏の著書を参照されたい。

 ■大学で話した?

 前稿に対して読者から寄せられた反論の中に、「アインシュタインがこのような趣旨のことを○○大学での講演のときに話した」、というものがあった。これも伝説でしかない。

 日本でのアインシュタインの講義をまとめたものとしては、石原純著『アインシュタイン講演録』(東京図書株式会社、1971年)がある。石原氏は、1913年にチューリッヒ工科大学時代のアインシュタインのもとで学んだ物理学者で、アインシュタインの友人であった。この講演録によれば、アインシュタインが日本で講義したのは、もっぱら相対性理論についてであって、日本文化論や日本国体論ではない。アインシュタインは物理学者として日本に招待されたのだから、当たり前のことである。話のついでに日本を賛美するような内容を一言でも漏らしていれば、当時、彼の講義を聴いた数多くの大学教授、学生、知識人の記憶にとどまったはずであるが、そういう記録はどこにも存在しない。何よりも、アインシュタインを学者としても人間としても心から尊敬し、日本でのアインシュタインの講義をすべて聴き、彼に捧げる詩まで作っている石原氏(氏は詩人であり歌人であった)が、そういうことにいっさい触れていない。

 また、「いろいろなところで話したことをまとめたものだ」という意見もあった。だが、諸処で話した内容を、アインシュタインの承諾なしに、彼の思想と一致しない形でつなげたのであれば、それは「捏造」以外の何ものでもない。

 この【言葉】が真実であることを証明したい方は、それが掲載されている信頼に足る資料を提示しさえすればよい。しかし、そういうものはこれまで見つかっていないし、これからも見つからないであろう。

 以上、この「Part 2」においても、【アインシュタインの言葉】は、

(1)どこにも確固たる典拠がない。
(2)内容がアインシュタインの思想と矛盾する。

ということを再確認した。この【言葉】が虚構であることは明白である。だが、虚構がいったん真実として広まると、それを正すにはなかなか時間がかかるようである。

 最後に、ある読者の方からいただいたメールを転載させていただこう。

*******引用開始*******
実は数年前からこの言葉の真偽について、アインシュタイン研究の大家である金子務先生にお聞きしてみたいと思いながらそのままになっていました。
そんな折りに中澤先生の論文を読ませていただき、やはり他人の創作だったかと思った次第です。これで一件落着したのですが、もし金子先生からも何か一言いただければ決定的だと考え直して、中澤先生の論文コピーを添付して金子先生にお伺いしました。

金子先生からいただいたご返事の一部を抜粋してお送り致します。

「お手紙の一文ですが、おっしゃるようにまったく信用できません。十年前にも二、三の方から質問いただき、その際出典元が伊勢神宮の◯◯とか言っていたのを覚えております。」
*******引用終わり*******

 金子氏がこの情報を聞いたのは今から「十年前」というごく最近のことなので、筆者は、「伊勢神宮の◯◯」も原初の創作者であるかどうかはわからないと思っている(なお「伊勢神宮の○○」は、いただいたメールでこのようになっていたもので、筆者が伏せ字にしたものではない)。

 本稿で言及したのは、読者の皆さまからの情報提供による文献である。ほかにももっと多くの文献がこの【言葉】を掲載しているに違いない。

 筆者の探究は現在のところ、1956年までしかさかのぼれていない。しかし、この【言葉】の背後には、明治以降のきわめて興味深い日本精神史の問題が潜んでいることも見えてきた。それ以前の文献を見つけ、「Part 3」を書きたいと思っているが、読者のご協力をお願いしたい。

※この稿の執筆中に、ある大学関係者からメールをいただいた。その方は、「アインシュタイン奇跡の年」100周年である今年、その大学で開催する予定のアインシュタイン展のスタッフの一員なのであるが、【アインシュタインの予言】が本ものであるかどうか、確認する必要があったようだ。拙稿によってその方の手間を省くことができ、【予言】のようなイカサマが展示に紛れ込まなくてよかったと思っている。

 中澤先生にメール mailto:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

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