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水戸烈公の国防と反射炉

2005年06月14日(火)
萬晩報通信員 土屋 直
 萬晩報通信員である藤田圭子女史にならって、自分の郷土のことを何か書いてみようと、先日仕事の合間をぬって父祖の地である伊豆の韮山を訪ねてみた。韮山といえば、幕末に伊豆の代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)が建設した反射炉が有名である。反射炉とは、銑鉄を溶かし大砲を鋳造する炉であり、1853年浦賀に来航したペリーの黒船騒動の中、幕府の許可を得て着工されたものである。今では、幕末の重工業の発生を象徴する記念物として、国の重要文化財になっている。

 反射炉のかたわらに建つ記念碑文を読んでみると、韮山の代官であった江川坦庵の非凡な人柄がうかがえる。若きころに江戸で砲術を高島秋帆に学び、剣術は神道無念流を修めた。また、神道無念流の兄弟子であった斎藤彌九郎とは長年の友人であり、蘭学者渡辺崋山と文を交わし、松代藩主真田信濃守と親交が深かったため松代藩士佐久間象山を弟子として受け入れている。

 しかしながら、碑文を読みすすむうちに必ずしも韮山の反射炉が日本で初めて建設されたものではなかった事を知った。反射炉の建設に最初に挑んだのは藩主徳川斉昭公(烈公)の熱心な国防論に突き動かされ水戸藩であることを知った。反射炉の築造は江川太郎左衛門に先駆けて、島津、水戸、鍋島が手がけて完成している。韮山の反射炉だけが国の重要文化財として現存しているのは、維新後、寺内陸軍大臣が荒廃した反射炉を偶然発見して世界的な記念物として大修繕をおこなったからに他ならない。今回は反射炉の先達である水戸藩の陰の部分についても触れてみたい。

 水戸藩の反射炉建設については、東郷吉太郎海軍中将の綿密な反射炉建設の調査に基づき編纂された『水戸烈公の国防と反射炉』(誠文堂親光社)に詳しい。

 黒船来航以前から水戸藩では、幕藩体制の動揺と西欧列強の進出という内憂外患を打開することが重視されていた。国内的には農村復興のための藩政改革を主張し、対外的には西欧諸国を夷狄とみなしてうちはらうという攘夷が主張された。あわせて国民の心を一つにし、階層秩序を維持するために尊王も主張された。ここに尊王と攘夷がはじめてむすびつき、西欧列強のいいなりになる幕府への批判する潮流が生まれた。

 水戸学の基礎をつくったのは、「大日本史」編纂にもかかわり、18世紀末から活躍した藤田幽谷である。これが子の藤田東湖にうけつがれて発展し、斉昭の名で公表された「弘道館記」(1838)に集大成された。

 水戸藩の改革をおしすすめ、藤田東湖らを登用した徳川斉昭公(烈公)は、黒船来航より20年前から独自の国防論を展開したが用いられなかった。反射炉建設も烈公の国防論の具現化の一つであり、長年の念願であった。

 やがて、1853年(嘉永6)のペリー来航後には海防参与として幕政にくわわった。将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって対外強硬論を主張し、開国派の井伊直弼とはげしく対立したものの開国派に敗れ、安政の大獄では水戸に永蟄居となり、60年(万延元)水戸城中で急死した。

 一方の水戸学の理論的旗手であった藤田東湖は1855年(安政2)の大地震のとき志半ばにして斉昭に先立つこと5年、江戸藩邸で圧死してしまった。

 1864年尊皇攘夷の旗の下に挙兵した天狗党には、藤田東湖の子、小四郎を旗頭に浪士、藩士はもとより、町民、農民や神官なども多く参加した。この動きに応じ、幕府は天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。水戸藩もこれに応じて市川某らを中心とする追討軍を結成し、1864年8月8日(元治元年7月7日)に諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まった。

 天狗党は水戸城へ向かい市川一派と交戦するがこちらも敗退し、那珂湊の近くまで退却する。市川ら諸生党は幕府に応援を要請し、那珂湊を包囲。幕府は田沼意尊を将とする部隊を派遣。共に那珂湊を包囲する。

 11月4日には総大将、松平頼徳が幕軍に誘き出されて切腹、千人余りが投降するなど天狗党は大混乱に陥り、侵略してきた幕府軍に徳川斉昭(烈公)ゆかりの閣は焼かれ、烈公の国防策の結晶である水戸の反射炉も灰燼と帰した。

 最後に、200年以上つづいた鎖国がやぶられることになった神奈川条約(日米和親条約)がむすばれた時の藤田東湖と薩摩藩士有村俊斉との対話が残っている。

「もし先生がその時外交談判の衝にいたり当たられたならば如何なされます御所存ですか」

と有村に問われた東湖は、

「万一、拙者がその談判の衝に当たり赤心以ってペリーに折衝すれども、ペリーがなお拙者の意見を容れなければおそらく拙者はペリーを刺すであろう。さすれば拙者も死する。然しながら、拙者のこの死によって日本国中の志士達の魂には旺然たる士気が奮いて起こる。さすれば必ずやこの未曾有の国難を突破することができるであらう」

と答えたという。この対話を若き日の海軍中将東郷吉太郎は同郷の有村俊斉翁から聞かされたという。


□参考文献;
『水戸烈公の国防と反射炉』(関一著;誠文堂親光社、国立国会図書館蔵)
『反射炉と江川担庵』(山田寿々六著;修善寺印刷所、国立国会図書館蔵)
『天狗党の乱』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



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