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ビッグ・リンカー達の宴2−最新日本政財界地図(20)

2005年01月20日(木)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■スウェーデンボルグとの出会い

「わたくしどもは、薩摩候の長崎駐在代理人あての取立手形を同封します。金額は五千二百五十二ドル五十セントで二千六百二十六ドル二十五セントの手形二枚と一組になっています。これはそれぞれ、S・オリファント氏から上野良太郎氏に用立てた1000ポンドにあてるものです。しかるべく御送金いただければ幸です。お話し申し上げてよいと思いますが、上野氏は同じ便船で日本に帰国します。このことと関連してつけ加えておくべきと考えるのは、わたくしどもが日本人全員に、以後信用状なしには一切金銭の前貸しをおこなわない、と通告したことです。昨日であったか一昨日であったか、私どもの耳に入ったことですが、パリでこの薩藩士の一人が、モンブラン候あてに三万ポンドというあきれかえるような高額の手形を振り出し、これが割り引きにまわされようとした模様で、これをきいて一層、先の決定を絶対改めるわけにゆかぬ、と決心を固めた次第です。」
(『カリフォルニアの士魂 薩摩留学生長沢鼎小伝』門田明、本邦書籍P78)

 これは、1867年5月10日付けのマセソン商会発ジャーデン・マセソン商会宛書簡とされ、薩摩藩のベルギーの伯爵モンブランと称する大山師への接近とマセソン商会への背信行為を鋭く指摘しており、マセソンへの負債をそのままにしながら、三万ポンドにのぼる膨大な借金をしようとする薩摩に対する疑念を示している。

 薩摩留学生には藩校の開成所に学ぶ俊才の中から15歳になる町田清蔵と18歳の町田申四郎の二人の弟が選抜された関係で、学頭の町田民部=上野良太郎も渡英に参加していたが、5月11日にロンドンを去っている。門田は「この帰国目的の一つに、留学生の金銭問題と、藩の方針に対する抗議があったことを暗示している」と書いている。

 軍備増強を進める薩摩藩の財政にとって、留学生たちへの出費は軽いものではなく、仕送りは途絶えがちになる。そこに現れたのがスウェーデンボルグ派神秘主義者であるトーマス・レイク・ハリスだった。

 ■コロニーでの薩摩留学生の生活

 1867年7月、藩の帰国命令を無視して森有礼、吉田清成、畠山義政、鮫島尚信、松村淳蔵、長沢鼎の6名がロンドンを出発、トーマス・レイク・ハリスが主宰する新生同胞教団(The Brotherhood of the New Life)のコロニーのあるニューヨーク州へ向かったのである。

 このコロニーは自給自足のユートピア・コミュニティであった。ここで森ら6名に薩摩第二次留学生の谷元兵右衛門(道之)、野村一介(高文)、仁礼景範、江夏蘇助、湯地定基の5名が合流し、総勢11名の薩摩藩士の閉鎖的な共同生活が始まる。

 しかし、すぐにハリスに対する疑念から、森、鮫島、長沢、野村の4名をのぞく全員がコロニーを去り、森と鮫島は神の宣告に基づき、ハリスより日本国家再生のために1868年に帰国を命ぜられた。

 森は帰国後もハリスとの接点を持ち続け、1871年2月に米国在勤少弁務使としてワシントンに向かう途中、サンフランシスコからハリス宛に手紙を送っている。この時、森とともに私費で米国に渡った仙台藩士、新井奥邃をハリスの元へ送りこんでいる。ここで新井は印刷係となり、長沢と共に新生同胞教団を担っていく。

 新生同胞教団はコロニーにおけるブドウ農園とワイナリーの経営を主な資金源として運営されており、最後まで米国に残った長沢鼎はカリフォルニア州サンタ・ローザに移住し、カリフォルニアの葡萄王と称えられている。

 ハリスに直接影響を受けた日本人は、森有礼、鮫島尚信、長沢鼎、新井奥邃の4名である。

 ■「周縁」としてのローレンス・オリファント

 ここでひとりの重要人物を見てきたい。トーマス・レイク・ハリスと薩摩留学生達を引き合わせたのはローレンス・オリファントである。オリファント家もスコットランドの名門として知られ、オリファントの両親は共に熱心なエヴァンジェリカルであった。オリファント自身は南アフリカのケープタウンで生まれているが、幼い頃から世界を転々としながらタイムズ紙特派員などを務め、小説家、紀行家として知られていく。

 特に日本との関係が深く、日英通商条約の締結に功あったエルギン卿の個人秘書として1858年に来日、3年後の1861年には一等書記官として再来日したが、江戸の英国公使館が水戸浪士の襲撃を受け、わずか10日あまりで帰国する。しかし、命を狙われたにもかかわらず、二度の来日で日本人への愛着を深め、1865年から67年まで下院議員を務めながら薩長留学生の世話役を務めていた。この間にオリファント自身はスピリチュアリズムに傾斜し、トーマス・レイク・ハリスの新生同胞教団の信者となる。

 オリファントは留学生達にヨーロッパ文明社会の腐敗と墜落、列強諸国による貪欲な搾取と簒奪の歴史を熱心に説いた。そして、自らの出生からスコットランドもウェールズとともに英国の中の異国であり、征服された民族として、今日でも「スコッチ」といって軽蔑され、だからこそ後進国日本にスコットランド人は親切なのだと語る。

 ここでも「中心」としての英国にあって、「周縁」同士が結び付き、下院議員を辞めて母と妻を連れてハリスの待つ米国へ旅立ったオリファントの後を追うように森らも新生同胞教団へと吸い込まれていったのである。

 しかし、多数の日本人留学生達を新生同胞教団に誘い込んだオリファントも1872年には数千ポンドの借金の返済などをめぐってハリスと裁判で争い、オリファントが勝訴する。これを契機に教団のスキャンダルが噴出し、崩壊の道を辿りはじめる。

 ハリスと決別したオリファントは日本人に代わる新たな周縁パートナーに選んだのが、ユダヤ人であった。

 ■オリファントとロスチャイルド家とシオニズム

 妻アリサに先立たれたオリファントはユートピア社会主義者として知られるロバート・オーウェンの孫娘ロザモンド・デイル・オーウェンと再婚し、二人は信仰に基づく政治的関心から先駆的シオニストとなり、「神の国」実現のためにパレスチナにユダヤ人国家の建設を目指した運動をはじめる。

 オリファントはパレスチナを訪れ、ほとんど無人の荒れ果てた土地を見て、ここをユダヤ人の手に返すべきだと思いつく。そして1881年に著作『ギリアデの地』を発表、さらにタイムズ紙でキリスト教徒はユダヤ人の努力を助けるだろうと呼びかけた。

 またオリファントは「英国キリスト教徒シオンの友」のひとりとして、「シオンを愛する人々」のワルシャワ支部長だったラビ・サミュエル・モヒリヴァーとともに開拓地救済のための支援を要請するために訪れた人物こそが、現代イスラエルの父、エドモン・ド・ロスチャイルドだったのである。

 最新日本政財界地図(19)で描いたヒュー・マセソン、そしてローレンス・オリファントによって日本とロスチャイルド家は接近し、後の日露戦争での金融支援につながったのだろう。

 1888年12月23日、オリファントは二度目のパレスチナへの旅行を計画中に英国のミドルセクス、トイケナムで病に倒れ、波乱に満ちた約60年の生涯を閉じた。その二ヶ月後の1989年2月11日、森有礼は文部大臣官邸玄関にて刺客西野文太郎に刺され、翌12日に42歳で死去した。

 ■スウェーデンボルグと三島由紀夫

 オリファントが日本に惹かれたのは女性神としてのアマテラス信仰にスウェーデンボルグの両性具有唯一神を重ね合わせたからだろう。これは後に新井奥邃の「父母神」となって受け継がれる。父母という二つの神的実体があるのではなく、「二而一(にじいち)」という新井独自の概念によって、二つは一体であり、従って唯一の「父母神」が存在する。この父母神は愛であり、宇宙万物の生命の源泉であり、神と人類は親子関係であるとした。

 スウェーデンボルグは新井奥邃を通じて田中正造や高村光太郎らに多大な影響を与え、スウェーデンボルグ研究の高橋和夫によれば、鈴木大拙、内村鑑三、賀川豊彦にも影響を与えたようだ。ここで、誰もが知るもう一人の人物をあげておきたい。

『やっとこの11日に試験がすみました。二ヶ月を無為にすごしたわけで、後味がわるうございます。勉強をしてゐる時は自分が小さな鼠であるかのような気がいたします。全く勉強は生理的に悪でございます。ーー11日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボルグの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。』

 これは昭和21年9月13日に川端康成あてに書かれたはがきの内容である。スウェーデンボルグの本をみつけて有頂天になったのは、三島由紀夫であった。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp

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