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高齢社会の実相〜技術論をめぐって〜

2004年12月06日(月)
長野県南相木村診療所長 色平(いろひら)哲郎
 日本は、多くの人が晩年に「障害」を背負う時代に入った。

 〜増える高齢障害者にどう対応するのか〜

 高齢社会とは率直に言えば、高齢の障害者が否応なく増える社会である。だからこそ生命が尽きるぎりぎりまで元気に働き、あっさりあの世に旅立つ「ピンピンコロリ」 が大往生としてもてはやされ、自分もあやかりたい、となる。しかし、現実には医療技術の進歩によって、ひと昔前は重篤だった病態がひとまず改善され、その後、さまざまな障害を抱えて過ごさねばならない人が増加している。

 この傾向は今後ますます強まる、と日々患者さんと対面しながら実感している。経済界が提唱する市場原理導入論は「ふつうの人が高齢障害者になっていく」という時代の大局的認識を欠いている。市場競争による医療の効率化は、治療行為と治癒の相関関係が見通せる条件下でしか成り立たない。合併症による多臓器障害や痴呆などをあわせ持つ高齢者のケア現場では、この安易な見通しは「患者きり捨て」につながってしまう。実態は一日、一日、本人と家族、ケアをする者たちが葛藤を抱えつつ、何とか乗り切っている状態だ。高齢者ケアは、医療と福祉が渾然一体となって係わらなければ立ち行かなくなりつつある。

 にもかかわらず、市場原理派は、医療の企業化で一部の高度医療へのニーズを充たせば、医療の質そのものが向上するかのような主張を展開。医療は病人を治すもの、老人介護は福祉の枠に収めればよしとする旧態依然たる発想を脱していない。くりかえすが、高齢社会の主要テーマは、ごく一般の人が高齢障害者になることに社会全体としてどう対応していくかだ。


 〜医療が高度化するほど医療費は増大〜

 川上武氏は『21世紀の社会保障改革』(勁草書房)で「医療技術革新」の歴史的な流れを踏まえて高齢障害者が増え続ける状況を分析している。その大意を記してみよう。

 戦後の第一次医療技術革新は、抗生物質や抗結核剤などの登場、外科系の全身麻酔、輸血、補液などの導入を促した。その結果、身体のあらゆる部分にメスが入るようになり、伝染病・感染症に対しても飛躍的な治療効果がもたらされた。一九四〇年代後半から五〇年代にかけて、それまで死因第一位だった結核の死亡率が瞬く間に減少し、 結核病床が不要となっている。医療費の面でも、疾病克服↓病人減少↓医療費削減というサイクルが成立した。

 六〇年代、成人病時代に入り、第二次医療技術革新が始まる。臨床検査の自動化、超音波技術、胃カメラ、血管造影など診断技術が長足の進歩を遂げる。ただ、診断面の進歩に見合う治療技術の発達はみられなかった。人工透析、心臓のバイパス手術、脳動脈瘤の開頭手術など治療面での大きな進歩はあったものの、技術そのものとしては「中間段階」。抗結核剤のような革期的効果をもたらす技術は出現しえていない。

 現在も第二次医療技術革新の範囲にとどまっており、患者は、中間段階の治療技術で寿命は延びるが完治されず、加齢・寿命の壁に阻まれ、診断・治療費は、効果の薄さもあって、ますます膨らんでいく。コスト・パフォーマンスにおいて、第一次技術革新のようなサイクルは成り立たない。医療が高度化するほど医療費は増大している。

 一方で、分子生物学の医学への導入で第三次医療技術革新が始まっている。臓器移植、体外受精、遺伝子操作などが世界の一部で実現過程に入ったが、全体としてはまだ研究段階。成人病+加齢↓老人病↓死のサイクルを解決できるものではない。

 ここを押えておかないと第三の技術革新を技術的「切り札」とみなす陥穽に落ちる(たとえば『患者の命は救えなかったが、ガンは退治した。医学の勝利』と学会で自慢げに発表するような例)。加えて臓器移植・体外受精・遺伝子操作は、従来の「医の倫理」と違い、医療技術そのものが倫理的問題を内包している。一般化にあたり、倫理、法律面で摩擦が生じ、社会的なコンセンサスは未だ成立しえていない。と、川上氏は「科学技術」としての医療技術の進歩こそが高齢障害者を生んでいく背景を解き明かしている。

 〜高齢社会にこそ求められる想像力〜

 都会では想像もつかないかもしれないが、私の村には老いた連れ合いの世話をすることが「天命」だと信じているご老人がいる。ある八十代のお婆さんは「あたしがガンバル。爺さんは家で治したい」と言ってきかない。

 相方のお爺さんは糖尿病が重く、寝たきりに近い。お婆さんは必死に世話をする。彼女自身、腰痛もひどいはずなのに入院を勧めると頑強に抵抗する。彼女がここまでガンバルのは「病院は入ったら最期」の思いが強く、医療費負担へのプレッシャーもあるからだ。

 とはいえ、お爺さんは過去に何度か入院し、その都度、一応の回復をみて退院している。お婆さんも頭では入院が必要なことは分かっているが、頑なに拒み、自分で世話をしようとする。彼女の内面には医者にも介入しがたい信念、巌のような愛情が存在する。とうとうお爺さんが昏睡状態になって、
 「もうダメだ。病院に運ぶよ」
 と無理やり引きずっていこうとすると、
 「先生、あたしは死んでもいい。爺さんの世話をさせてくれ」
 とすがりついてくる。
 「死んで世話ができるかい」
 と強引に切り離す。……修羅場である。

 別のお婆さんは、晴れがましい席が苦手で、村人とも顔を合わそうとしない。さりとて「引きこもり」というわけでもない。畑に出て野菜をつくり、山にも入る。ひとりで生きる「野生の」ご老人だ。彼女も体のあちこちに痛みを抱えるが「ひとりがいい」と入所を拒んでいる。しかし、いよいよ具合が悪くなったらどうすべきか。実はまだ決めかねている。

 都会の病院ではベッドに空きがないといって、重い障害を持つ高齢者を在宅に押しこむ。医療的な処置が必要な高齢者を福祉施設に押しつけている。あちこちギャップだらけだ。

 社会全体として、障害を背負って晩年を生きることに、もっと想像力を働かさなければなるまい。

 色平さんにメール mailto:DZR06160@nifty.ne.jp

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