古いパソコンを使い続けているからだろうか、
いただいた電子メールが、文字化けして読めないことがある。
バージョンアップしていないからだろうか。
記憶容量が限られていることもあるだろう。
余裕がないので、負荷をかけるとフリーズして動かなくなるようだ。
人間も同じではないか。
いくら覚えることが得意だといっても、たくさん覚え込み、
吟味することなく暗記しまくれば、
古いデータやわけのわからないソフトが頭の中にたまってしまい、
若くして「若年寄」ができるだろう。
パターン化して覚えれば覚えるほど、
頭の中はごちゃごちゃになって重くなり、自由な発想に乏しくなって、
コンクリートの塊を頭に詰め込んだように「動脈硬化」をきたすだろう。
当たり前のことだが、事態を変革する新たな構想やアイデアは、
知識だけからは生まれない。
体験と、その体験を共有した仲間との創造的なディスカッションが重要だ。
そして相手の心の動きや周囲の気配を読み解き、
「風」を感じ取る能力の方が、事物を覚え込む能力よりずっと大切なのだ。
事物を記憶するだけなら、
コンピューターのハードディスクに任せたほうがずっと正確だろう。
時にはきれいさっぱり忘れてしまう能力こそ、
人間にとって、むしろ大きな才能となるかもしれない。
そんな移り変わりの激しい時代が、われわれの眼前にあるように感じる。
子どもが7歳から14歳までは、「伝統的価値」を教え込むことが大切だろう。
権威を伴った教師が、愛情をもって規律を教え伝えること。
文字も計算も立ち居振舞いも、こうするモンダ、と教科書的に教える必要がある。
しかしそのまま、こうするモンダ、と進んで行ってしまってはいけないのだ。
14歳以降の教育の理念は、まったく異なる。
14歳から21歳までの多感な時期は、親よりも、
兄弟より教師よりも、大切な存在がある。
親にも教師にも打ち明け得ない、そんな秘密を分かち合う数人の仲間。
「同時代的価値」をともに体験し、感じ、分かち合う仲間こそ重要だ。
さまざまな冒険もあり、壁もあるだろう。
しかしこの大切な、しかも困難な時期を、仲間と一緒にくぐり抜けてはじめて、
人はひとりの人間になる。
数人の仲間から発し、
21歳にして人は「ひとり」のヒトとして社会に生まれ落ちるのだ。
ひとりの人間として、広い世間を生きることが始まる21歳――。
ちょうど生れ落ちた赤ん坊が、
手に触れる外界のすべてのものを口に入れて確かめるように、
世間と新たに付き合うことが始まる。
世間とはこんなモンダ、他人とはこうやって付き合うモンダ、
と決めてかかってはいけないのだ。
摩擦を恐れず、時には反面教師としてでも、
周囲の人々の生き方から学ぶ謙虚な姿勢が必要となる。
ヒトは、どこの国の出身であろうと、男であろうと、女であろうと、
年長であろうと、年下であろうと、「魂として」平等である。
書いたもの、しゃべったものではごまかしが可能だろう。
だが、生き方だけはごまかせない。
あらかじめの知識や肩書きなどで決め付けずに、世間の人々、
世界の人々の多様な思いと生き方に出会って学んでほしい。
人生には、ぶつかってみなければ分らない、
自分の足で歩いてみなければ分らないことが多い。
人の話にも、書物の中にもヒントはあるが、
自分の人生の「答え」は自分で見つけるしかない。
あてのない旅が人生そのものだとするなら、
「生きる力」こそ今大切なものだと思う。
色平さんにメールは DZR06160@nifty.ne.jp
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