高知県佐川町は高知市西25キロの仁淀川水系にある。高知から松山に出る街道沿いの町。農水省的にいえば典型的な中山間地。さほど平地があるわけもなく、豊かでもない。牧野富太郎はそこの造り酒屋の一人息子として生まれた。
佐川町を歩いて考えさせられることは、持続的な教育の継続と外部からの人材登用・流入こそが発展の礎にあるということである。
江戸時代、土佐藩主山内家の筆頭家老職を代々務めた深尾家が佐川一万石を領有していた。深尾の源流は佐々木源氏で、保元・平治の乱に敗れて鈴鹿の山奥に逃げ込み、やがて戦国時代に山内家のけらいとなった。だから土佐の地侍ではない。長曽我部が土佐を領有した時代、一帯を支配していたのは伊予国から移住してきた越知一族ら地侍だった。そんな土地柄を深尾一族が知行することとなって大きな変化が起きた。
佐川は土居(どい)という領主の館を中心に町が形成され、街道沿いの商業の町としても繁盛することとなる。土佐藩の産業として和紙が奨励され、深尾家は山間にコウゾ・ミツマタを植えさせた。「土佐和紙」の紙漉きは仁淀川の河口に位置する伊野町で行われたが、佐川は原料の一大集積基地となった。
水質がよいところから酒造りも盛んになった。深尾の旧領地の美濃から酒造り職人を連れてきて、杜氏は広島から招いた。現在も「司牡丹」という名の造り酒屋が一軒あるが、大正時代まで5軒ほどあった酒屋が統合したもの。司牡丹の塗り壁は江戸時代の造り酒屋の風情を残すが、牧野家の造り酒屋もその一部として町のたたずまいに溶け込んでいる。
佐川町で一つ特徴的なことを書き記せといわれれば「名教館」(めいこうかん)に触れなければならない。深尾家が江戸中期につくった家臣のための学校だった。「多くの一流学者を聘して教授を主らしめ、、書生を養生したため学風勃興し、遂に佐川は学問の隆盛を来たした土地となった」(牧野富太郎「我が故郷」)とされる。
郷土史によると、四代目の重方は元禄年間に「大儒学者の聞え高かった伊藤東崖の門下にあった江田成章を京都から招き、高録、邸宅を供して講義させ・・・家臣たちに勉学させた」とある。明治政府が招聘した「お抱え外国人」と同じ発想である。とにかく佐川では明治までの百年間、高知にあった藩校に匹敵する学問が行われていて、西日本でも有数のレベルを維持していたということなのだ。
板垣退助が後に「自由は土佐の山間より出ずる」と称したように土佐藩は倒幕の志士を数多く生んだ土地柄でもある。武市瑞山が率いた土佐勤皇の壮士は192人に及ぶといわれているが、佐川から勤皇の志士12数人が輩出したことと名教館の学統が無関係にあるのではない。
山間が幕末・明治の志士を生み出したのではない。山間に育まれた教育が時代の求めた人材たちを放ったのである。商人の子ながら牧野富太郎もまたここで学び、中岡慎太郎亡き後、陸援隊を事実上引き継いだ田中光顕伯爵もまた佐川・名教館が生んだ名ブランドである。
■我が故郷 牧野富太郎
吾が故郷は高知県土佐の国、高岡郡の佐川町であるが、昔には佐川村と云ってゐた。丁度土佐の国の中部に位してゐた土地で、海からは北の方へ四里程隔たってゐる。四方は小山で取り囲まれてゐる盆地で、田やら畑やらが連なってゐる。其中央に平地に市街があって町をなして居り、春日川とゐう小さな川があって町の南を過ぎ、それが折れて北向きの流れとなり町を離れ去ってゐる。町はおほかたは商家で、東から国道が這って来て町を過ぎて通り、遂に隣りの越知町に通じてゐる。そして更に遠く隣国愛媛県の松山市に連絡してゐて、其間今日ではバスが通じてゐて便利である。これと同時に高知より入り来る鉄道は、佐川、西佐川の二駅を通って南方須崎市に達してゐる。
此佐川は、昔は佐川を中心として其近傍一万石と称し、それを深尾家が領有し、此深尾家が佐川一円の領主で且統治者であって、代々それが続き、泰平を謳歌してゐた。即ち此佐川一円は土佐国主山内一豊公から賜はったものだ。右の領地を給はった時は、今から正に三百五十一年(西暦一六〇一年)前の慶長六年であった。そして深尾家は代々続いて十二代になり、其治世の間が二百六十余年程であった。深尾家の主人公は明治二年に佐川に於ける累代の邸宅を毀ち、佐川を去りて高知市に移られ、次いで明治三十三年に至て東京市に居を定められた。
明治維新前は、深尾家の臣は所謂お士(さむらい)で沢山ゐたが、皆深尾家より禄を頂戴し生活してゐた。此等の人々は維新後には主人公と離れ、銘銘自活せねばならぬ境遇に陥いり、中には馴れぬ士族の商法で、困った人々も寡なからずあった様だ。此等の人々は世が世ならと、しみじみ嘆いた事であったであろう。
深尾家の臣、即ち家来達のお士は、多くは深尾邸のお土居前の近傍から其下方に散在してい疎らな聚落をなしてゐた、此時世には皆大小の刀を差し、町人などに対しては横柄なものが多かった。町人も百姓も恐れ入って頭を下げてゐた。
佐川の町は商業地で商家が櫛比してゐる。町の外は皆郷保(ごうがた)で、其処には農家が散在し、其時分には農家の人々をみな百姓と云ってゐた。町は町人の住い地で、東町、西町、新丁出来町、新地、松崎、肥代坂などに分かれてゐた。町には土産神社(うぶすな)が二つあって、一は東町の方のもの、一は西町の方のものであった。東は春日神社で、西は金峯神社、即ち牛王様(ごわう)である。皆多くの氏子を持ってゐる。そして今日でも社殿が厳然として居り、氏子衆は皆お参りをして崇敬してゐる。春日神社も金峯神社も各々年に一度の大祭があって、牛王様では何時も御輿(みこし)を担ぎ出し当日は中々の賑ひである。
お士でも亦町人でも執れも皆寺子屋へ行って習字を教すわったものであった。私は幼少の時分、佐川西谷の土居謙護先生方で手習いをした。間もなく目細(めぼそ)の伊藤蘭林(徳裕)先生の寺子屋に転じた、其入口に当時非常に大きなクワリンの木があった事を覚えてゐる。此寺子屋は大抵お士の子弟でしたが、私と今一里佐川西町山本屋の富太郎と二人が同じ名前の町人であった。士の方が上組(かみぐみ)で町人の方が下組(しもぐみ)と、一家屋の中で二分せられてゐた。そこで畫食の時になると、先ず下組の町人は「上組の御方御免下され」と挨拶した後に箸を下さなければならなかったに対し、お士の子弟の方は「下組の方免してよ」と挨拶したものだ。当時はまだお士と町人との区別が深く染み込んでゐたので、こんな封建的な挨拶をせねばならなかった。これは人間に上下の階級があると思ってゐたからだ。明治初年頃は右の有様が普通であったが、段々世が開けるに従い、此の様な陋習も次第に無くなり、其内明治七年に至り、小学校も出来る様になり、遂に今日に及んでゐる。右明治初年頃の事を回想すると、全く隔世の感があるが,私は此長い間幾変遷せし大芝居を実地に見て来たわけです。
佐川は昔から学問の盛んな地であるとの公評があった。是れは深尾家第九代の深尾重教君が、佐川の菜園畑(さえんばた)に名教館という大校舎を築造し、多くの一流学者を聘して教授を主らしめ、書生を養成した為めに学風勃興し、遂に佐川は学問の隆盛を来たした土地となった。明治になっては新学者も輩出し、其中でも佐川からの出身者は宮内大臣の田中光顕氏、土方寧(やすし)法学博士、広井勇工学博士など錚々たる人々であった。其他佐川からは氏原氏など博士号を有する数人が出た。高知に亜いで学問の盛んな土地で、諺にも「佐川山分学者あり」と謂われてゐたが、誠に其通りである。併かし教は大分衰靡して昔の意気がないのは佐川の為めに残念に思わざるを得ない。私は其の頽勢を挽廻する非凡な人物が佐川に現れん事を熱望する次第だ。これに就ては切に佐川人士に奮起を促したいと思う。
佐川には維新前後、所謂勤王の志士が大分あった。中にも有志の輩は、身を挺して国境から脱走した人もあった。後に宮内大臣になった田中光顕氏も其一人であった。佐川の田舎から大臣を出したと云う事は、兎に角佐川の誇りである。
佐川は総体から言うと余り富有な村町ではない様に感ずるが、それは佐川の為めに残念な事と言わねばならない。佐川の人々が富めば、従て佐川が富む理屈だから刻苦精励して大いに各人が産を興し富を殖やさん事を、私は佐川を愛するが為めに。偏へにおすすめしたいのである。佐川を富ます為めに、何か興すべき産業はないものか。佐川を憂ふる人の一考を望みたいと思ふ。
佐川に一つ天然的に名産があるのは嬉しい。それは何んでせうか。其れは春日川の鰻である。以前親類の牧野儀之助君から、其鰻を送って呉れしが、其味が格別に佳かった。私は体の養生の為めに毎日東京の鰻を食べてゐるが、其れに比べると佐川の鰻の方がはるかに美味だ。併かし調理の仕方はさすが東京の方が上手だ。東京の調理法を佐川の鰻に施したならば、それこそ尚一層美味な鰻の味となるであらう。誰れか一人鰻料理の修行に東京に遊学(ハハハ)に来る人はないかナ。そして東京直伝の鰻料理で大いに鳴らせば、佐川の鰻料理屋は此上もなく繁盛し、千客万来で自慢が出来る事受合だ。そして其声価が高く高知迄も響いて七里の道を遠しとせず御来臨ある事保証もできると云うもの。そして東京仕込み鰻料理で大いに鳴らせば、佐川の鰻料理は此上もなく好評を博すること受合だ。何を言へ畑水練では覚束ないネ。ところが昔と違い春日川の水が減って従って鰻も減り困ったものだが、何とかして鰻を殖やす方法も講じて見る事だヨ。
佐川は昔から酒のよく出来る処で、前には町に五軒程な大きな酒屋、即ち酒造屋があったが、実は私宅も其一つでした。其酒屋に生れた一人息子が私でしたが、後に酒屋の株を譲って、私は時分の好きな学問界へ跡をも見ずして走り込んだ。元来佐川は水の質がよくて佳い酒が出来る。後には数軒の酒屋が一つに統合せられて株式会社を組織し、其醸した酒を司牡丹を命名して東京迄も進出せしめる様に発展した。
扨私は今年数え年九十二歳になったが、其後大分久しく郷里へ帰へらんので、達者な内、見おさめとして一度帰省して見たいと思いつつ、毎日研究の仕事に追われて、サー行かうと云う折りが中々得られなく、断えず故郷の景色にあこがれてゐる。
扨私が愈よ郷里を離れて東京へ来り東京の人になったのは明治廿六年一月、即ち私が大学の職員となった年で、指折り算えて見ると、今から六十年も前であった。けれども故郷ほど、懐かしい処はない。故郷に帰って、子供の時分に遊んだ山や川などへ行って見ると、此処ではかうした、あそこではああしたなどと様々に、いろいろ昔にあった事が思ひ出されて、実に感無量であると思ふ。当時の人は今は皆故人となって再会の機なく、今日の人は亦昔の人ではない。が、たとへ人は変ってゐても、山や川やは依然として昔の姿そのままである。併かし川の水には増減があり、山の樹には盛衰があって、其等は在りし昔のままの姿ではない。又私は其当時に若かりし故、頭髪は黒かったが、今は雪を戴く白髪となり、前日の紅顔は何れの辺にか消え去った。今は毎日自然の草木を眺めて「朝夕に草木を吾れの友とせば、心淋びしき折ひしもなし」と歌ってすましてゐる。
佐川の東端久兵衛坂の下り口を今霧生関と書いてゐるが、之れを呼ぶにはキリウセキと云うのが本当か、之れをキリブセキと云うのが本当か。これより外に読み様がない。之れを旧来の称へのキリフザキとはどうもは発音が出来ない。即ち是れは旧来の通称へ、此んな風流な字を宛てた学者の罪である。其字面は風雅で洵に結構だが、昔の通り呼ぶには都合が悪るい。此んな字を用うる為めに却って人の誤解を招く本だ。箱根の関とか、勿来の関とか云う様に、昔其処に関所のあった処ではないから、霧生関と呼ばなくても可い。今日でも称へてゐる様にキリフサギ、或はキリウサギと云えば結構だ。即ち是れは旧来の様に切塞(キリフサギ)とすれば可いわけで、学者が余計な美称を附け過ぎた為め、却てマゴツク様な始末に陥った。佐川には漢学者が大分居た為め、其等の人が霧生関と雅名を用ゐて昔からの通称を歿却してゐるた、詩でも作るには便利かも知れないけれども、実際は昔からの称を廃した姿で不都合千万だ。
此キリウサギに伊藤蘭林先生の碑が建ってゐるが、是れは誇るに足る佐川老学者の記念として大事に保護して置きたい。今日は最早時代が過ぎたから。無論直伝の弟子はないだろうけれど、適当な戸にに祭典を挙行して尊敬の意を表わしても可いと信ずる。
春蝉の頻りに鳴きしきりぎりす
久兵衛坂は今もなつかし 結網
佐川地方にはいろいろ貝の化石が沢山に出るのだが、其名かにダオネラ、サカハナと云うのがある。即ち佐川の地名を取って種名にしたものだ。平たい貝に細線の印せられた型の化石であるが、貝の実物は残ってゐなく、ただ細線が密に並んでゐる型だけが認められる。
佐川で名を知られ、佐川の町から北に望まれる貝石山の貝の化石は、軟らかくて砕け易いものである。私の若かりし時分には此貝石山の絶頂は露出してゐて、貝を掘るにも容易であったが、今日は其絶頂は皆樹木が生え茂って其産地を隠蔽してしまってゐる。
佐川の化石は皆貝ばかりであるが、私が嘗て吉田屋敷跡で、たった一つ得たのは珍しくも植物であった。単羽状の葉形のものであったが、多分ソテツか或は其類のもので、其名は前世界のものだから勿論分明しないが、兎も角も珍しい化石であった。今でも其辺を徹底的に発掘捜索したら、或は再び見付からんとも限らない。又越知町に属する先達野の崩れた斜面地で私は大きなトリゴニアの化石を拾った事があった。佐川町の青山文庫には佐川産の化石標本が大分集ってゐる由、誠に其学の為めに賀すべき事である。私も次に佐川へ帰ったら是非一度拝見に出たいと希望してゐる。
佐川に産する植物の一にサカハサイシンと云うサイシン属の宿根草があって、此類名で一番花の大きなもので珍しく、兎に角佐川の誇りとするに足る植物の一つである。学名も佐川の名を記念して付けられ「アサルム、サカハナ」と謂われ発表せられた。(我が思いで=遺稿より)
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