Yorozubampo

  謳歌したインターナショナルフリーター

   2001年04月11日(水)
  東西センター北東アジア経済フォーラム上級研究員 中野 有

 もし(IF)自由を謳歌することができればどんなに幸せであろうか。これは国籍を超えて誰もが望む想いであろう。先人は、自由を獲得するために多くの犠牲を払ってきた。自由民権運動家の中江兆民は、「自由は取るべきものなり」と述べている。人類の歴史は、自由を獲得するための歴史であると言っても過言でない。現在も何のためにあくせく働くかといえば、豊かな生活をおくる、即ち自由を得るために会社や社会に貢献しているのだろう。

 若者の間で、フリーターが増えている。定職に就かず、いや就く事ができず、刹那的に生きるために働かせられているのがフリーターなのであろうか。このように、一般的にフリーターのイメージは芳しくない。しかし、フリーターを「自由人」として訳せば、終身雇用の形態と対極的な21世紀の生き方に発展するのではないか。

 一流大学に入るために無味乾燥的かつ機械的な受験勉強を強いられる。子供の時から強制的な勉強ばかりしていると、人間が成長期に養うべき直観力や創造力、そして心身の向上に欠陥をきたす。かっての日本では、このような犠牲を払っても一流大学を目指す価値が有ったかも知れない。しかし、日本式経営が機能しなくなった現在では一流大学を卒業しても、かってのように一生の生活の安定が保障されるわけではない。

 現在の日本に必要とされているのは、学歴という表面的なものでなく、日本のこころを有し、グローバルな社会に通用する実力をいかに養うかである。偏狭な日本という枠におさまらず、地球益のため、世界の万民のために行動する人材が求められている。

 その意味でも学生や社会人が先進国や途上国を問わず、経済発展や社会資本整備、フロンティア的な仕事に取り組み、多角的視点で洞察する力や、日本とは違う価値観を養う。これは決して不毛な回り道でなく、途上国でバイタリティーあふれる生活に接し、大自然とともに生きることで、人間の根本にある直観力を呼び起こすことが可能となる。加えて、欧米のライフスタイルに接し、また弱肉強食の社会に身をおくのも必要であろう。

 現在の若者は、先人の汗による経済発展のおかげで、フリーター(自由人)として活動できる「ごほうび」を授かっている。どうせなら、日本の枠を超えて「インターナショナルフリーター」として地球規模の活動に参加し、夢を抱くべきである。クラーク博士は、きっと以下のようなメッセージを伝えるだろう。「青年よ大志を抱け。そして、地球規模で活動する自由人として地球益のため汗を流せ」。

 20年前に日本企業に就職したときに、終身雇用や年功序列の日本式経営の弊害が必ず起こると予測した。脱藩の気分で日本企業を去り、国連機関で途上国や開発援助の仕事に取り組み、米国のシンクタンクや日本のシンクタンクにも勤務してきた。日本の社会の純粋培養による安定がないおかげで、インターナショナルフリーターとして世界を飛び回り国際的な人脈を形成することが生きるために必要であった。異なった国籍の人々と建設的な仕事を行うことで、多角的に思考する力や、実践による直観力を養うことができた。

 しかし、人生とは面白いもので、まわりまわってこの桜の季節に何回目かの新入社員として日本企業に勤務することになった。組織の枠におさまらない日本人が日本企業でやっていけるかどうか未知数である。しかし、日本企業が大きくグローバルな潮流の中で大変貌を遂げつつあると実感できる。

 ぼくの場合、インターナショナルフリーターとしての回り道は少し長かったかもしれないが、自由人として世界に目を向けたのは決して無駄ではなかったと感じる。もし(IF)20年前に戻ってもIF(インターナショナルフリーター)の道を歩むことは確かである。


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