1984年度アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞、オリジナル作曲賞など7部門を受賞したハリウッドの名監督スピルバーグの「シンドラーズ・リスト」(Schindler’s List)が、鬼気迫るナチスの虐殺から1200人のユダヤ人を救った伝奇的なドイツ人―オスカー=シンドラーの勇気と人間愛を描き、世界中で大きな話題を巻き起こした。それ以降、第二次世界大戦で身の危険を顧みずユダヤ人の命を助けた人々のことを「シンドラー」と呼ぶことが普通になっている。
エルサレムにあるホロコースト記念館では、「シンドラー」たちの記録が75000件も保管されており、ユダヤ人救出に携わった18000余人が「正義の人」と称えられ、その名前が「正義の壁」に刻みこまれている。「正義の人」に認定されるたびに「正義の人公園」に記念植樹を行なうことになっていたが、今ではその植樹のスペースすらもなくなるほどだ。歴史はナチスによる600万人ユダヤ人虐殺を阻むことが出来なかったが、「正義の人」達の行動によってどんな闇黒な時代にも正義と人間愛だけは不滅だということを後世に伝えることができた。
数多くの「シンドラー」の中でも、特に功績が大きかったのは外交官だ。ナチスドイツ占領下のリトアニアで領事代理をしていた日本の外交官杉原千畝は、6000人以上のユダヤ人にビザを発給した。ハンガリー駐在スウェーデン外交官オリンバーガーはその公的身分と優れた社交能力を発揮し、ナチスと巧みに渡り合いながら、少なくとも2万人のユダヤ人を死の瀬戸際から助けた。昨年4月に国連本部で行われた「命のビザ−正義の外交官達」(Visas for Life: The righteous Diplomats)展によれば、このような各国の外交官が50人もいたという。この人達の献身的な行動があればこそ大量のユダヤ人が救われたのである。
そして、旧暦大晦日の1月23日、イスラエルのホロコースト記念館でもう一人の外交官の「正義の人」表彰式が行われた。主人公は3年前に亡くなった元ウィーン総領事の民国政府外交官の何鳳山(か・ほうさん 1901〜1997)だが、代わりにその娘が式に立ち会い、元イスラエル最高裁大法官から賞状と記念メダルを授かった。
1932年にミュンヘン大学で博士号を取得した鳳山は、国民政府の外交官としてヨーロッパで活躍していたが、1938年から約2年間ウィーン総領事を務めた。
1938年3月、ナチスドイツはオーストリアに侵入した後直ちにユダヤ人への迫害を開始した。銃口に恐れおののく18万5千人のユダヤ人達にとって、唯一の活路は国外へ脱出することだったが、猛威を振るうナチスドイツとの関係悪化を避けるべく、各国の大使館が積極的に対応しなかった所為で、出国するためのビザを入手することは極めて困難だった。だが、孤児で教会の援助で立派な教育を受けてきた鳳山は培ってきたキリスト教の仁愛精神に基づき、自らの判断で領事館に群がるユダヤ人にビザを発給した。途中、状況を知った国民政府が出した緊急禁止令をも押し切って、鳳山はひたすらビザを発給しつづけたのだ。
総領事就任から最初5カ月間、ユダヤ人に1900件のビザを発給したとの記録があるが、1940年5月の退任までにどれだけのビザを発給したか、それを証明する資料はどこにも残っていない。ただ、1940年当時、上海に避難してきたユダヤ人だけでも18000人を超えており、その多くはウィーンからの難民だったという。だが、鳳山から「命のビザ」を得て悪魔のナチスから逃れた人とその子孫が現在、アメリカ、キューバ、ロシア、フィリピン、イスラエルなど世界各地で暮していることだけは間違いない事実である。
ユダヤ人救出に人生をかけたシンドラーは、戦後も生活に追われて流転の旅を強いられていた。オリンバーガーの必死の説明にもかかわらず、ハンガリーに突入してきたソ連軍にナチスドイツのスパイとして逮捕され獄死した。そして、杉原千畝は戦後日本に戻ってまもなく「リトアニアでの行動」を理由に外務省から免官されてから、これも職を転々として安泰な暮らしとは無縁だった。これらの人々と比べれば、鳳山のその後は平安無事であったといえるだろう。一時責任を問われそうな危機もあったが、彼は運よく乗り越え、中東、南米諸国の大使を歴任したあとも、さらにサンフランシスコで25年間閑静な老後を送ることができたのである。
カナダから鳳山の表彰式に駆けつけてきたユダヤ人の老紳士は、「今も占領下のウィーンを思い出すとユダヤ人迫害のシーンが幾つも重なって浮かび上がり辛かったが、目を閉じると鳳山総領事の笑顔が現われ安心感を与えてくださる」という。「正義の外交官」は亡くなってからもユダヤ人の守り神になるのである。(2001.02.03)
文さんにメールは mailto:bun@searchina.ne.jp
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