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国境線に囲まれた「ナワバリ」の意識‐「永住外国人」地方参政権についてもう一度考える

2001年01月11日(木)
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 担

 私は去年の秋、定住外国人の地方参政権について書いた。このテーマは十年以上前ドイツでも盛んに議論された。自国に定住する外国人も自分達の社会の成員であり、また自分達の社会が民主主義を標榜している以上、彼等も参政権を持たないのはおかしいと感じるのがヨーロッパでの議論の出発点であった。

 ところが日本の議論を知るうちに少し様子が異なることに気がついた。どのように異なるのかを考えていると困ったことに原稿がどんどん長くなってしまった。それでも、多くの人々が読んで感想を寄越したくれた。(「本当に、ありがとうございます」)

 これがインターネットの良いところで、私は日本人とあまり接触がないためか読むと新鮮で面白い。また私が考えもしなかったことや見聞できないこを指摘していただくことが多い。

 私は昔からどんな意見でも、反対意見でも面白いと思うたちで、なぜそうのような見解になるかを考えるのが大好きである。そのような事情から手紙をもらうと自分も負けずに感想を送り返す。今回は、書いているうちに数が増えてできなくなってしまった。そこで今からいただいた手紙についての感想を書かせてもらう。

 定住外国人の参政権の問題について理屈からいって次のような対応があると思う。

(イ)少数の国で実行されているが、重要でない地方自治体選挙だけに参加させる。
(ロ)欧州の国で黙認されたり、また考えられたりしている方式で、重籍を認めて定住外国人に参政権をもつようにさせる。
(ハ)定住外国人に国籍をとってもらい、自国民になってもらう。

 大雑把にいってこのように分けることができると思う。感想を寄せてくださった読者の大部分は国籍をとってもらう最後のオプションの賛成者で、参政権を分割して地方選挙権だけをあたえる(イ)に賛成されない。また(ロ)の重籍を認める欧州方式には、予想されたことだが、反発が強かった。

 ■「謙譲の美徳」と参政権

 私はドイツに長年いるが、「外国人として分をわきまえて暮らす」という気持を失っていない。似たような信条をもちながら、日本人が外国で暮らしているということを、今回私はあらためて思い知らされた。

例えば、「台湾に永住してもよい」と考えられておられる読者は次のように書かれた。

《、、、、但し こちらで参政権を行使したいと思ったらその時は帰化しようと思ってます。それは 片一方で日本国籍を持ちながら ただ税金を納め義務を果たしているという理由だけで他国の選挙に干渉しようなどとは 失礼な話で 台湾人を尊敬していればそんなことは出来ません》

 このように思う人にとって、私達が自分を外国人と見なすことはその国で「客」もしくは「居候」に過ぎないと考えていることである。そのような自分の身分を考えたら参政権を要求するなど礼儀に反する行為ではないのか。台湾だけでなく、世界の色々な場所で暮らしておられる読者が似た見解を表明された。外国に暮らし、そこで外国人となった日本人はこのように礼儀正しいのである。

 私たちは日本に居住する外国人にも同じような礼儀正しさを求める。彼等も外国人として、「客」として、あるいは「居候」としての立場を考えて謙虚であって欲しい。だから彼等が参政権を求めるとすれば、それは分を忘れた行いである。だからこそ、参政権を得たいならば、日本国籍を取得して日本人になるべきである。

 日本で暮らしておられる多くの読者の方もこのように考えられたのではないのだろうか。だから定住外国人に地方参政権付与に反対されたり、彼等の日本国籍取得を要求された。私は読者からいただいた手紙を読んでいてそのように思った。(十年以上前ドイツで議論されたとき、このタイプの論拠は皆無ではなかったが、これ程大きな役割を演じなかった。この点を本当に面白いと思う)

 日本人の私達がこのように考えたり、感じたりすることをまったく異なった観点から解釈することができる。

 国境線に囲まれた「ナワバリ」の意識が私たちにはとても強い。その結果、台湾でも、ドイツでも、あるいはメキシコでも、外国で暮らす私たちは、自分の「ナワバリ」の外、すなわち他人の「ナワバリ」のなかに厚かましく滞在する存在になる。外国人としての自分の存在ををこのように考え・感じているからこそ、私たちは遠慮深く(礼儀正しく)なり、時には卑屈になるのである。(周知のように遠慮と卑屈は紙一重の差ということがある)

 そして自分が遠慮し過ぎたことに後になってからくやしく思う。この厄介な心理過程を見ないですますために「分をわきまえるべき」とか「尊敬心を抱いて対処すべき」といった「謙譲の美徳」を持ち出して自分に言い聞かせている。このようにも考えることもできるのである。

 ■内国人としての日本人

 誤解のないように強調するが、私はある個人が外国人として分をわきまえて暮らすべきとか、あるいは礼儀正しく振舞うべきといった考え方そのものに反対しているのではない。この種の道徳律が「外国人参政権」反対論拠として説得力を発揮し過ぎることを問題にしているのである。

 例えば私達が旅行者として短期滞在するなら自分を「お客」のように思うのは当然である。ところが、参政権と関連する外国人はもう何十年も、何代もその国に暮らしている定住外国人である。このような外国人と数日前に来たばかりの外国人の相異が重要でなくなり、「外国人として分をわきまえる」ことを望むのは、国境線に囲まれた「ナワバリ」の意識があまりに強いからではないのか。

 だから彼等を社会の成員と見なすべきかどうかの議論の出発点が、この「ナワバリ」意識の背後で見失われてしまう。あるいは、自分の「ナワバリ」意識に直面しないですますために「地球市民」として「前向き言語」で話しているのではないのか。

 外国に滞在すると、自分の「ナワバリ」でなく他人の「ナワバリ」にいると思う。だから何をされても仕方がないので、低姿勢で遠慮し謙譲の美徳を発揮している。時には卑屈になったりする。ということは、今度私達の「ナワバリ」の中に入って来た人々に何が起こっても仕方がない、あるいは何をしてもよいと考えるのではないのだろうか。何か起これば、他人の「ナワバリ」に入って来た者にこそ責任があるといえるからだ。

 また外国人についてこのように考えていると、彼等に遠慮したり、時には卑屈になることを要求することがあるのではないのか。この傾向は色々な事情から、ある外国人グループが「お客」として処遇されなければされないほど強くなる。(ある読者が日系南米人労働者の権利が無視されていることを指摘されたが、この状況では法的関係など成立しにくいのである)外国人となった私達の礼儀正しさがコインの表側とすれば、内国人としての日本人のこの賞賛できない傾向はその裏側である。

 日本で「帰化」と呼ばれる国籍取得の現実も一度この観点から考えてみるべきではないのだろうか。ある市役所の国際部で係長として働かれた経験を持たれる読者のひとりが、

《抜本的には、国籍法(及び入管法)を改正すべきなのです。現在の永住権保有者には希望により国籍の取得を認める。却下理由は限定し、挙証義務は国側に負わせる、という形が望ましいです。また、「帰化」(王権の徳を慕って翼下に加わるという原義があります)という「差別語」は止めて「国籍取得」という言葉に変える。永住者の国籍取得手続きにおいては「素行が善良」かどうかの身元調査は廃止する。まして昔のような日本名の強要など、もってのほかです。》

 この方以外にも数人の読者が「帰化」許可に至るまでの時代錯誤的審査の実情を問題視された。個人でなく家族単位でしか「帰化」許可を申請できないことも「冷蔵庫のなかのキムチまでさがす」徹底した身元調査も、「韓国人であることを忘れろ」といった担当官の発言も、今や「厚かましくも」私達の「ナワバリ」の正式住人になろうとする人々に対して、これが最後の機会とばかりに「卑屈になること」を要求していることにならないだろうか。私は昔「隠れキリシタン」に対して実施しされた「踏絵」を想起した。

 今年度の通常国会に、与党3党が「特別永住者」の「帰化要件」を緩和するために議員立法で国籍法改正案を提出することが新聞で報道されている。外国人に日本国籍取得を要求される人々の多くが「帰化」許可審査の実態などご存知ないのではないだろうか。私はこの立法計画がきっかけになって実情がもっと多くの人々に知られ、議論されるようになることを願うばかりである。

 ■有事のとき信頼できない

 多くの読者が参政権と兵役の義務もしくは国防の義務が切り離せないことを「外国人参政権」反対論拠として強調された。「外国人は有事のとき信頼できない。そんな人々に参政権などもってのほかである」といった具合である。

 このタイプの論拠も十年以上前、ドイツでほとんど役割を演じなかった。周知のように、この半世紀日本には徴兵制度がない。そのためか、手紙を読み始めたとき、正直いうと、書かれた方が(自衛隊員を除いた)日本国民全部の選挙権剥奪を提案されるのではないのかと心配した。納税義務と同じように、鉄砲を担いで国防義務を果たす能力は参政権を直接根拠づけるものではない。そんなことになれば、まず国民の半分以上を占める女性は選挙権を失うことになる。

 また、なぜ「外国人は有事のとき信頼できない」などと主張されるのであろうか。昔「外人部隊」で勤務され、今ではフランス政府の年金で余生を過ごしておられるドイツ人老人を偶然個人的に知っているためか、私はこの主張に賛成できない。

「外国人は有事のときに信頼できない」と主張される以上、「同国人は有事のときに信頼できる」と考えていることになる。半世紀以上前、あまりそうでもなかったことを経験された方々はまだ日本に生き残っているはずである。いずれにしろ、この考えも「同国人は犯罪をしない」と同じように少々楽観的過ぎるのではないのか。

 冷戦時「前線国家」であった西ドイツでは、国民が有事のとき米軍をはじめとするNATO軍の外国人兵士が少しは信頼できると考えて暮らしていた。日米安保条約があるのにまるでないかのように思い、守ってもらっている意識が欠如していることを「平和呆け」と呼ぶなら、参政権に関連して「外国人は有事のときに信頼できない」など簡単に主張する人々も自分こそ「平和呆け」を患っていないかを考えてみるべきである。

 ■背後から意識を規定する国家観

 誤解のないように強調すると、私は参政権を国籍保持者に限定すべきという立場を尊重する。前回も論じたように、冒頭の(イ)(ロ)(ハ)のどれもが国籍や国家の重要性を認めた上での対策である。

 またこれも当然のことであるが、私達誰もがナワバリ根性をもっているのである。どこの国民も多かれ少なかれ国境線に囲まれた「ナワバリ」意識をもっている。前回ドイツをはじめ多くのヨーロッパ諸国はあまり国籍をとりたい気持にさせる国柄ではないと指摘したが、これもこの国境線の「ナワバリ」意識と無関係ではない。欧州方式とは国柄が早急に変わらないので重籍を認め、定住外国人に参政権を可能にすることである。前回触れなかったが、これは資本と人材が米国に一極集中する現状にブレーキをかける対抗策でもあるのだ。

「国家」とか「国民」の考え方も一九世紀から二十世紀、更に二十一世紀と時代が進むにつれて変わってきたものである。私がときどき気になるのは、明治の開国時に欧州列強から「すり込み」にあったソーシャルダーウィニズム的(弱肉強食的)「国家」観が私達の固定観念になってしまったのではないかということである。私達の意識がそれによって背後から規定されていることにあまり気がつかない。この気がつかない状態で多くの議論をしている。

 私が参政権に関連して指摘した国境線の「ナワバリ」意識の強さもこのソーシャルダーウィニズム的国家観の反映である。でもこのテーマに限られない。例えば、どこの先進工業国でもかなり昔から産業の「空洞化」論議をやっているはずである。ドイツではいつも自国の企業がこれほど外国に投資するのに対して外国企業はドイツにあまり投資してくれないという相互のバランスが議論の出発点である。

 一方日本では長い間そうでなかったはずである。これも、私達が日本に投資する外国企業を「ナワバリ」のなかに侵入してくる存在と感じているからではないのか。反対に海外で勤務する会社員は、他国という「ナワバリ」、すなわち敵地に乗り込むわけで「海外企業戦士」といった具合である。

   でも国境線の「ナワバリ」意識が強くてもかまわないように思われる。但し、どこかで「敵か味方か」のレッテルを貼るだけになってしまうのではないのか。これは、他国を知るためにも、また自国を知るためにも、あまり恵まれた環境ではない。


 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
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