1945年、第二次大戦が終了し、アジアで二つの大きな軍事裁判が始まった。東京裁判とデリーのインド国民軍裁判である。日本が関わった「大東亜戦争」の評価をめぐりこの二つの軍事裁判ではまったく違う論陣が張られていた。東京裁判の法廷では連合国が日本を「侵略者」として裁き、デリーの軍事法廷ではイギリスがインド国民軍将兵を「反逆者」として裁こうとした。
裁判の結果、前者では日本が「悪者」として断罪され、後者では国民軍が「愛国者」として英雄視された。大東亜戦争の最中、ともにインパール作戦を戦った間柄である。
●諸君は独立を欲するか、生命を欲するか
日本の無条件降伏とチャンドラ・ボースの死によって、3年半のインド国民軍(INA)による祖国の武力解放の夢ははかなく崩れたかのようにみえた。しかし、インドの民衆はボースの努力を無駄にはしなかった。
戦争が終った後イギリスが着手した仕事はINA2万人の将兵の処理だった。イギリスはこれら将兵を「イギリス国王への反逆」とみて軍事法廷にかけ、インド帝国に権威を誇示しようとした。インドの民衆、特に英印軍、つまりイギリス軍内のインド人兵士に対するみせしめとし、インド支配を揺るぎないものにする必要があった。
1945年11月5日、インド国民軍第一回裁判はデリーのレッド・フォートで開かれた。レッド・フォートはかつてのムガール王朝の王城で当時はイギリスのインド支配の牙城だった。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍が「チェロ・デリー」と進軍を夢みたインド解放の象徴でもあった。
このレッド・フォートに関してネルーは「この裁判の行われた場所として、デリーの『赤い城』ほど格好な場所はないだろう。88年前、ここで一つの裁判があり、偉大な王朝の最後の人を裁いた。1945年の最後の週に行われた第二の裁判は次の章の終末をもたらすであろうか。しかり、その章はまさに終わらんとする前兆である」と象徴的な言い方をしている。
英印軍の立場からするとINAに関係したものはすべて、反逆罪の対象で法的には死刑に処すべきだった。しかし、2万人もの将兵を裁くことは事実上不可能であり、インド民衆に与える影響も大き過ぎた。そこですべての将兵について尋問調査し、「戦闘、あるいはそれ以外でもイギリス人や連合国の人員を殺害する主役を演じたものと残酷に扱ったもの」に限って裁くこととなった。
その結果、第一回裁判ではシャヌワーズ大尉(INAでは大佐)、サイガル大尉(同中佐)、ディロン中尉(同中佐)の3人を訴追することが決まった。罪状は「マレイ、ビルマで、1942年9月から45年4月までの間、イギリス国王に対して戦争をしたのはインド刑法第121条違反に当たり、その間の殺人と殺人教唆はインド刑法第109条、302条による」というものだった。
一方、インド国民会議派は9月14日の運用委員会(プーナ)で、「インド国民軍将兵は祖国インド独立のために戦った愛国者であり、即時釈放されるべき」と決議、INA将兵救援のためのインド国民軍弁護委員会を結成した。弁護団はインド法曹界の長老デサイ博士を首席に、ネルーら会議派のそうそうたるメンバーで編成された。1939年の会議派トリポリ大会以来、ボースと反対の立場をとっていたネルーは20年ぶりに法衣をまとっただけでない。ついに「国民軍将兵は愛国者である」とボースの作った軍事革命集団であるINA擁護の立場に立ったのだった。
そして10月19日、ネルーはレッド・フォートにシャヌワーズら被告を訪ね、「もし、諸君が命が助かりたいのなら、その方法がないわけでない。しかし、万一諸君の生命が助かってもインドはなんら得るところはない。だが、もし、諸君が生命を捨ててくれるなら、インドは諸君の尊い犠牲によって得るところは大きく、独立は促進されるだろう。諸君は独立を欲するか、生命を欲するか」と彼らにインド独立の犠牲になることを要求した。
シャヌワーズらは「我々の生命は国民軍に参加したその日からインドに捧げられたものだ」と答えた。
同席したデサイ博士は「諸君の生命も重大だが、いま我々が一番しなくてはならないのは諸君らの指導者ネタージの名誉を救い、諸君の軍隊であるインド国民軍の栄誉を守ることなのだ」と勇気付けた。
●隷属民族は闘う権利がある
11月5日からの裁判の最大の焦点はインド国民軍が自由かつ完全独立した軍隊だったか、という点だった。会議派は日本の援助を受けた同盟軍として弁護したが、イギリス側は日本軍のかいらいであると、決めつけた。
インド側の要請により、日本から沢田廉三元外務次官、松本俊一外務次官、大田三郎外務省参事官、元ビルマ方面軍参謀の片倉少将、F機関の藤原中佐らが証人として喚問されることになった。
藤原中佐らは証人喚問では「INAの反逆罪は免れようがなく、刑の軽減のため証言を求められるだろう」と考え、今大戦のINA将兵の行為はすべて日本軍の命令で行われたものと証言することで口車を会わせることにした。
しかし、インドへ来てみると情勢は日本で考えていたのとは全く逆だった。シャヌワーズ被告らの決意は固く、インド国民会議派もこの機会を利用して反英闘争を開始しようとしていた。
INA将兵の収容所内では、ネタージことチャンドラ・ボースから授かった軍服を愛着し、誰もがビルマ戦線で使っていた「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」と挨拶し合っていた。また、当局の制止を拒否して毎朝INA軍歌を合唱、法廷でも栄光ある国民軍階級章を離さなかった。
藤原中佐によると、日本人は収容所に入れられたものの、看守やインド兵も好意的で、見ず知らずのインド人から多くの差し入れまであり、ネタージのことを知っているだけで尊敬されるという有り様だったという。
軍事法廷は12月31日まで続いた。弁護側はまず、裁判の非合法を主張した。被告らの行為は、自由インド仮政府の軍人として実行したものであることと、この仮政府とインド国民軍は独立した団体で日本の支配下にあったのではないと主張。この二点からインド国内法の適用は受けないことを強調した。
確かに、自由インド仮政府の樹立に当たって、チャンドラ・ボースが最も苦慮したのは、いかにして仮政府を国際法上、独立かつ完全な人格として整合性を持たせるかにあった。弁護側は、自由インド仮政府は日本政府の承認だけでなく、諸外国からも承認されており、日本政府からはニコバル・アンダマン諸島の割譲も受け、事実上、国際法上の交戦権を持つ団体である、と主張。その独立と同時にINA所属将兵は英皇帝に対する忠誠義務が解かれるため、反逆罪も成立しない、と結論した。
仮政府の独立性については、いったんラングーンの仮政府に派遣された蜂谷公使が、「ボースの要請で改めて信任状を持って派遣された」とする沢田元外務次官の証言が有力な証拠となった。
また、インド国民軍の独立性に関しては片倉少将が「インド独立運動は当初からチャンドラ・ボースの純然とした自主性から生まれた。インド国民軍はボースの完全指揮下にあり、インド解放のために武力闘争に出たのもボースの意志だった。日本は大東亜民族解放政策の一環からこれを支援した。
したがってインパール作戦も日本軍の立場はビルマ防衛策だったが、ボースはこれをインド解放闘争に利用したもので、形の上では一緒に戦ったが、互いに別個の作戦だった。その証拠に日本はインパール統治の意志はなく、占領後の統治はボースがビルマ方面軍との協定のもとに独自に計画した。その他、指揮権、軍の編成、軍法会議にいたるまでINAは日本軍からの独立性を明確にしていた。この点で、満州国軍やビルマ国防軍とは大きな違いがある」などと証言した。
シャヌワーズ被告らもインド国民軍や自由インド仮政府の独立性を主張、最後にデサイ博士が、1775年の米国独立戦争の例を引き「植民地の人民は搾取する本国に対して独立自由を獲得すべき天与の権利を有し、英皇帝に対する忠誠より自らの国家に対する忠誠が優先する。日本とインド国民軍との共同作戦は今大戦でイギリス軍の一部が米国のアイゼンハワー将軍の指揮下に置かれたのと同じこと」「隷属民族は闘う権利がある」と締めくくった。
●インド民衆の決起
インド国民軍裁判はイギリスにとって大きな誤算だった。民衆のイギリスに対する怒りは逆に爆発、裁判の進展とともに国民軍は国民的英雄に祭り上げられていった。この反英気運は信仰や民族、階級と言語、政党や党派を越えた大きなうねりとなった。INA自体がそうしたインドが持つ幾多の矛盾を乗り越えて独立のため結集した集団だったからでもあった。
インド議会では、国民会議派が連日、INA裁判の不当性や大衆のデモに対する不当弾圧を糾弾し、ヒンズスタン・タイムズやドン、ステーツマンなど有力マスコミもINA裁判批判の記事やインバール作戦でのINAの武勲話で紙面を埋めつくしたという。
民衆は街頭に出てイギリスの支配に抗議するデモ行進展開、インド各地で暴動を誘発した。裁判が開始した11月5日の翌日、植民地政府は「監禁中のINA将兵の中から首謀者400人を向こう6カ月の間に裁判にかける」と発表したことが民衆の怒りに火を注ぐ結果となったのだった。11月21日から26日にかけてのカルカッタのデモはゼネストにまで発展、全市がマヒ状態に陥り、火の手はデリーやボンベイなど主要都市にも広がった。
藤原中佐は後にこの暴動をレッド・フォートの収容所内からも感じ取ることができたと自著「F機関」に記している。「レッド・フォートを囲んだ暴徒の歓声が一段と高まり、近付いたかと思うと銃声が城内にこだまし、しばらくすると暴徒の声は怒号に変わった。キャンプのボーイが『死者何人。負傷者何人。郵便局が焼かれた。警察署が燃えている』など状況を逐一報告してくれ、我々は固唾を飲んで成り行きをみていた」と述べている。
12月31日、シャヌワーズ被告らに無期懲役が宣告された。イギリスは判決に対するインド民衆の怒りを恐れ、判決の公表をさけ、翌年1月3日被告3人を軍職解雇とし、釈放した。刑の執行無期延期措置を採ったわけで、事実上の無罪放免だった。
朗報はまたたくまにインド全域に広まり、民衆の歓喜を呼び覚ました。各地で盛大に祝賀会が開かれ、カルカッタでは1月23日にチャンドラ・ボースの誕生日は町を挙げた祝典となった。
INA裁判はこれで終わったわけではなく、その他のINA将兵の対する公判はまだ続いていたが、2月に入ると今度はボンベイのインド海軍が反乱を起こした。INA裁判に抗議するとともに、食料や給料の改善を要求、将兵は20隻の艦船を占拠。彼らはINAのスローガンを叫び、イギリス人を襲撃した。この騒動は海軍だけでなく、英印軍全体に波及した。
軍隊内にまでINA裁判の影響が及んだことを重視したイギリスは、直ちにINA裁判の中止を宣言、INA将兵全員を釈放した。イギリスの敗北は近付きつつあった。イギリスにとってこれ以上のインド領有はいたずらにイギリスの経済的、軍事的消耗を強いるだけだった。
一年後の1947年イギリスはインドへの権力委譲の準備を終えた。インドは独立した。歴史に「もし」は許されないが、ボースが生きてインドに帰っていたら、裁判を取り巻く情勢はもっともっと激しいものだったことは想像に難くない。INAは戦場から同胞を蜂起させることはできなかったが、法廷から見事にその使命を果たしたのであった。
インド独立に果たした日本の役割は決して小さくない。インド人たちが知っている常識ををわれわれはもう少し知っておく必要があるのではないだろうか。
参考:
2000年08月08日 日本の中にあったインド独立の原点 伴 武澄
ネタジと日本人 レッド・フォートの暁 片倉衷
Mikiko Talks on Malaysia マラッカで出会った「日本占領」に関する資料
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