「私は『東洋の真珠』と呼ばれるペナン島で、1925年の七夕の日に生まれたんですよ。ロマンチックでしょう?」
高く甘い声で、悪戯っぽく、そう語るラザク先生の笑顔を、私は毎年7月7日に必ず思い出す。お元気だろうか・・・、お会いしたいなあ・・・。まるで、昔の恋人を思うような懐かしさがこみあげてくるのだ。
ラザク先生(Abdul Razak bin Abdul Hamid)は元マラ工科大学ルックイースト政策プログラム主任。生き残った唯一人のマレーシア人被爆者でもある。
小柄ながら、いつも身だしなみをきちんとし、背筋をピンと張った先生は、敬虔なモスレムとディシプリンある古き良き時代の日本人を合せたような人柄で、まるで日本とマレーシアの架け橋となるべき星の下に生まれたような方である。以下その不思議な人生の歩みをご紹介しよう。
10歳で父親を亡くしたラザクは、翌年、母親とともにペナンから兄のいるクアラルンプールへ引っ越す。クアラルンプールの中学を卒業し、15歳で中学教師見習いとなる。しかし、間もなく1941年12月8日に、日本軍がマレー半島北東部コタバルに上陸。1942年2月15日にイギリス軍がシンガポールで無条件降伏すると、マラヤは日本の軍政下に置かれる。ラザクは3ヵ月の日本語講習を優秀な成績で修了し、セランゴール州文教科日本語教育コーディネーターに任命される。
マラッカの馬来興亜訓練所での2回にわたる研修を経て、1944年6月に18歳で南方特別留学生に選ばれ、来日。東京の国際学友会で日本語教育を受けた後、1945年4月に広島文理科大学に入学した。しかし、8月6日、授業中に被爆。同11月、20歳で学業半ばにして帰国した。広島で一緒に学んでいたマラヤ留学生のニック・ユソフとサイド・オマールは被爆死し(サイド・オマールについては前回コラム参照)、今も広島と京都で眠っている。
帰国したラザクはスルタン・イドリス師範学校で学び、中学教師、師範学校講師、テレビのジャウィ教育番組の講師等を経て、1978年にマラ工科大学のマレー語及び日本語の講師となる。マハティール首相が提唱したルックイースト政策の一環である産業技術研修生の予備教育が1982年に同大学で開始されると、そのプログラムの責任者に抜擢される。以後、1998年に同大学を退職するまで、日本語教育者として、また日マの架け橋として活躍。また、1984年からは自宅隣のモスクの管理責任者に任命され、今日に至っている。
私は国際交流基金時代、仕事上でのおつきあいが深かったので、何度も先生の希有な経験について、直接話を聞くチャンスがあった。
先生は日本語は美しく、音の響きがよくて、繊細さのある言語だという。帰国後は暫く日本との距離を置かざるを得なかったが、クアラルンプールに日本大使館が開設されると、館員向けに自らマレー語教師を買って出たり、自宅で夫人が館員の奥様向けにマレー料理教室を開いてその通訳をするなど、日本語に触れる機会を作る努力を続けたという。だから、マラ工科大学の日本語講師になった時、30年以上のブランクがあっても、教えることができたのだそうだ。
先生はまた、日本文化はイスラームの教えと共通する部分が多く、その点でも親しみと興味を覚えたという。
そして、「馬来興亜訓練所や日本留学で学んだことが、その後の生き方に積極的な影響をもたらし、『負けずに頑張る精神、困難に挫けない精神』は一生を通じての生活信条ともなった。国歌の斉唱や国旗掲揚を通じて、国を愛することも、日本から学んだ大切な価値だ」と述べている。
先生の話を繰り返し聞いているうちに、先生の口癖である「できないことはない!」はいつしか私たち国際交流基金の仲間の間で「頑張りましょう!」に代わる掛け声ともなった。
60年代後半から再開されたマレーシアの日本語教育は80年代から90年代にかけてますます盛んになり、1993年にはマレーシア日本語教育連絡協議会が発足したが、会長にはラザク先生を、と誰しもが思った。ラザク先生はこの多民族国家にあって、民族の区別なく広く日本語教育関係者の人望を集めていた。そして、ラザク先生のもと、バラバラだった日本語教師たちがお互いの結びつきを強めていったのである。
1995年、国際交流基金はクアラルンプール日本語センターを開設した。終戦50周年の年である。偶然のことだった。その同じ年にラザク先生が国際交流基金奨励賞を受賞した。マレーシアからはウンク・アジズ元マラヤ大学学長の基金賞に続く、二人目の受賞者である。その知らせを受けた時、当時日本語センターの主幹をしていた私は感極まって、はらはらと泣いてしまった。
自らの意思というよりも、国家の意図で「南方特別留学生」と「ルック・イースト政策」という形で日本との関わりを持ったラザク先生。その50年という長い年月を貫いた先生の日本への情熱に対し熱いものがこみ上げてきたのである。
10月3日の東京での受賞式を終えてマレーシアに戻ったラザク先生を関係者一同が囲んでお祝いしたことは言うまでもない。先生は後に続く者の「誇り」でもあった。
七夕はとっくに過ぎていたが、数日前、私は急に思い立って久しぶりにゴンバのラザク先生宅を訪ねた。運良く先生はご在宅で、「伴さぁーん」、「せんせー」と握手をしたお互いの手は固く握られたまま暫く離れなかった。少し痩せられたかなとも思ったが、その75歳の小柄な体からは昔と変わらぬ明るい「生気」が感じられ、「先生は万年青年ですね」と申し上げた。
居間に通されると、広島県からのお客さまが歓談していた。先生は来月また広島を訪問されるという。「モスクの方も責任があるし…。一日5回行きますよ。夜は毎晩8時から10時までね。」 退職されてからも相変わらずお忙しそうな先生だった。
そんな忙しい先生を突然訪ねて、あまり長居をしてはいけないと、暇乞いをして外に出ると、家の前に立派な車が止まっているのが目に付いた。「先生の…」と言いかけると「いや、息子のですよ。ペナン科学大学の副学長補佐(実質の副学長)をしている長男のズルキフリーが出張で来ているんです」と先生はおっしゃった。先生は幾多の困難をくぐりぬけながらも、やはり、幸せな星の下に生まれた方なのだなあ、と私は思った。
帰り道、43回目の独立記念日を十日後に控えたクアラルンプールの町には、赤、黄色、青、白、四色の国旗がまるで春を告げるように鮮やかに咲き始めていた。