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日本の中にあったインド独立の原点

2000年08月08日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄

 インド独立の原点が日本にあるといったら驚く人が多いに違いない。インド独立の闘士はガンディーでありネルーだった。ネルーは戦後インドの首相になって日本にもやってきて親日家だと思っている人が多いが、戦争中は二人とも反ファシズムを宣言して、イギリスとともに連合国側にあった。このことに間違いはない。

 だがもう一人、インド独立史に名を遺した志士がいた。スバス・チャンドラ・ボース。この名前を記憶にとどめている人は相当のインド通である。

 ●宗主国と戦わなかった植民地インド

 植民地支配にあったインドのガンジーやネルーが宗主国と戦わず、宗主国の戦争を支援していたのだから不思議だが、チャンドラ・ボースは戦争中にシンガポールでインド国民軍の総帥となり、イギリスに宣戦布告した。いわば枢軸側に立った人物である。

 戦後、イギリスは宗主国に牙を剥いたこのインド国民軍を戦争裁判にかけ、植民地支配の威信を取り戻そうとした。だがことは単純に終わらなかった。チャンドラ・ボースはインド国民会議派とたもとを分かち、日本軍とともにインパールで敗退。終戦の3日後、台北の松山空港で乗っていた飛行機が墜落して非業の死を遂げる。戦争が終わってみると彼が育てたインド国民軍が一夜にしてインド解放の象徴的存在に変わっていた。

 イギリスによる報復は裏目に出た。インド国民会議派は裁判に弁護士団を送り込み、労働組合はゼネストに入った。大英帝国の番犬と揶揄された英印軍までもがイギリスに砲弾を向けた。この結果、裁判の進展とともにインド全土が騒乱状態となり、イギリスがインド支配を諦める引き金になったというのが歴史の真相である。

 しかし歴史はまた予想外の展開となる。1947年、インドが独立を達成すると、ボースは日本に協力したとして戦後のインド独立史から名前が抹殺されかけるのである。

 25年ほど前、チャンドラ・ボースの肖像画がニューデリーにあるインド国会に掲げられ、市内には「チェロ・デリー」の掛け声も勇ましい軍服姿の銅像まで建てられた。ガンディー、ネルーに次いで3人目の国父としてボースはようやくインド正史にその名をとどめることになる。

 ●一時期、東京はアジア革命の拠点だった

 ボースといえば日本では「中村屋のボース」(ラス・ベハリ・ボース)が有名だが、チャンドラ・ボースはこのボースとは別人である。ラス・ベハリ・ボースもまたインド有数の革命家だったが、第一次大戦の時、イギリス人のインド総督暗殺に失敗して日本に亡命した。

 明治後期から大正時代にかけて実に多くのアジアの革命家が日本を頼り、日本を訪れている。西欧による世界分割が最終段階に入り、その歯牙から唯一まぬがれたのが日本だった。このことは国民として誇りに思っていい。日本は最初からアジアを侵略したのではない。

 日本は西欧列強との対峙の中でアジアの利権の分け前にあずかり、結果としてアジアに覇権を求めるようになるのも事実だが、孫文の中国革命の一大拠点は東京だったし、1925年、北京で客死するまで孫文は日本と中国との連携を模索し続けた。これも歴史的事実である。

 ●ネタジーとマハトマ

 スバス・チャンドラ・ボースはベンガル生まれの熱血漢である。すでに述べたが、第二次大戦中にインド国民軍を率いて日本軍とともにインパールに軍を進めたが、終戦直後に台北の空港で飛行機事故に遭い、非業の死を遂げた。日本では信じ難いことだが、カルカッタではボースに対してほとんど信仰に近いものがある。

 インドではボースの名は多くあるため、スバス・チャンドラ。ボースは「ネタジ」(総帥)の名で呼ばれる。

 インド独立の志士たちを明治維新の日本にたとえると、ガンディーは精神的柱としての西郷隆盛、ネルーは維新後のの基礎をつくった実務派の大久保利通に似せられるかもしれない。そうなるとボースはさしずめ坂本竜馬のような存在といっていいかもしれない。

 ボースについては追々書いていきたいと思うが、ガンディーがマハトマ(魂)と呼ばれ、ボースがネタジと称されるわけはそんなところにあるのかもしれない。

 登山家の川喜多二郎氏がかつてヒマラヤ遠征をした折、ネパールで大歓迎を受けたことがある。その地を治めていた知事がインド国民軍の将校だったことを知るが、インドと日本がともに大英帝国と戦った国同士だったことを強調され、困惑したことを自著に書き記してある。

 中国や韓国と違って、インド人の国民感情が日本に対して概して好意的なのは第二次大戦の最中に起きたインド人と日本との間の数々のドラマのおかげだということを知らずにいると恥をかくことになる。

 ●杉並区に眠り続けるボースの遺骨

 筆者がボースの名を知ったのは高校時代、藤原岩市氏の著書「F機関」を読んでからである。また大学時代、その藤原岩市氏から通訳のアルバイトが舞い込むという偶然にも恵まれた。おかげでインド・インパール州からの訪日団の世話をすることになり、インドでのボースの評価を聞かされることになった。

 そんなことが縁で、第二次大戦中にボースの周辺で世話をした日本人将兵の方々とも知り合うこととなった。

 ボースの遺骨は杉並区和田の蓮光寺というところにある。仮安置だったはずなのに、なぜか50年をすぎてもそのままである。生前にボースと関係のあった人々たちでつくる「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」が毎年、8月18日の命日に慰霊祭を続けてきた。蓮光寺の住職も代替わりし、アカデミーの人たちもみな高齢ですでに他界した人も少なくない。

 アカデミーの最大の目的はボースの遺骨を無事、インドに返還することである。50年以上にわたり、外務省やインド政府に働きかけ続けている。

 蓮光寺にはネルー首相、ガンディー首相らを含め多くの閣僚が参拝している。インド大使が着任したときはまっさきにボースの遺骨を慰めるのが恒例となっている。にもかかわらずボースの遺骨返還はいまだに実現していない。

 インド国民軍の参謀長だったシャヌワーズ・カーン氏(故人)が「ボースの遺骨は軍艦を派遣して必ず迎えに来る」と約束した時期から40年を経た。事務局長の林正夫さんは「自分たちの世代にできなければどうなるのか」と将来を危惧している。

 そんなスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの人々に代わって、ボースと日本の関わりを月に1、2度の頻度で書いていきたい。


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