今、東京で上映されている唯一の映画館「渋谷シネマライズ」には、週末長い行列ができる。若者から老人まで幅広い層から人気を集めている。決して派手な宣伝をしていたわけではないが、口コミで人気が広がったようだ。今年1月15日の封切りから5ヶ月を経てもその人気は衰えていない。
ヴィム・ベンダース監督によるその映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の主人公はキューバの老ミュージシャン達である。
この映画誕生のきっかけとなるCDアルバムの話を持ちかけられるまでの数年間、靴磨きをして生計を立てていた「ボレロを歌うのに最適な音域を持った」73歳のイブライム・フェレールや今年で93歳になるギタリストのコンパイ・セグンド、関節炎で演奏もできず10年のあいだ家にはピアノもなかったという79歳のルベーン・ゴンザレスなど忘れられていたキューバのミュージシャン達が全編にわたってすばらしい演奏を聴かせてくれる。
彼らが演奏するキューバ音楽は、ラテン音楽の源流の一つでありながら冷戦時代の影響で西側の世界から閉ざされていた。冷戦崩壊後のキューバに単身乗り込み彼らを探し出したアメリカ人ミュージシャンがいる。
●♪ ライ・クーダーの世界
ライ・クーダー(Ry Cooder)は、1947年3月15日、ロサンゼルスで生まれる。8歳のとき初めてギターを手にしたライは、驚くべき早熟ぶりを見せて、17歳の時ジャッキー・デシャノンのバック・ギタリストとしてデビューする。
エレクトリックギター、アコースティックギター、マンドリンを巧みにあやつり特にスライドの名手として知られている。スライド・ギターは指にガラスや金属製のボトルをはめて演奏する奏法のひとつでボトルネックとも呼ばれている。
多少なりともスライドもかじった経験からすれば、ライブの時などはひやひやすることも多い。単にスライドのテクニックでみれば、ライを超えるミュージシャンは多くいるように思う。ただ、この人にしか出せない独特の乾いたサウンドがあることは間違いない。
数多くのオリジナル・アルバムも発表しているが、総じて売れたためしがない。専門家やマニアからは手放しの絶賛を受けるが、商業的には成功したとは言えない。せいぜいヒットチャート100位止まりではないだろうか。そしていつしかライはクレジットカードをキャンセルされ、電話局との言い争いも絶えることなく、一時はガスや電気も止められそうになる。妻のスーザンや息子のヨアキムのためにいつものサンダル履きで向かった先がハリウッドであった。
サントラ・アーティストとしてのキャリアは80年のウォルタ−・ヒル監督の「ロング・ライダーズ」から始まった。その後「ボーダー」「ストリート・オブ・ファイアー」「アラモ・ベイ」「クロスロード」等を手掛け超多忙なスケジュールに追われることになる。その中で、「ベルリン・天使の詩」のヴィム・ヴェンダースと始めて組んだ作品が「パリ・テキサス」である。おそらくこの作品はライの才能を見事に引き出した最高傑作のひとつだろう。
経済的に余裕のできたライは再び旅を開始する。本やレコードでしか知ることのなかった幻のミュージシャンを訪ね一緒に仕事をする。そして、キューバに立ち寄りアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を完成させる。結果的には、このアルバムがライにとっては世界で売上枚数150万枚以上の最大のヒットとなる。
映画の中でライは「35年のキャリアがあるがオーディエンスの好みは謎だ」という意味のことを言う。彼のことを知るものにとっておもわず苦笑する場面だ。
97年に公開された「エンド・オブ・バイオレンス」でヴェンダースはライと再びコンビを組む。アルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のレコーディングを終えたばかりのライは、ヴェンダースにそのラフ・ミックステープを渡す。これが映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の誕生のきっかけとなった。
●♪ 傷だらけのカセットテープ
さて私の車のオーディオはいまだにカセットテープ式である。プラスティックのバスケットの中に、ケースもタイトルもないテープが何十本も折り重なって入っている。テープの種類と傷の付き具合で中身がわかる。特に汚れの激しいものは、海外放浪にもおつきあいしてくれたものだ。
天気や行き先に合わせてテープを選ぶ。同じような曲ばかりに後部座席からクレームも入るが、おかまいなしに指でリズムを刻む。
ライ・クーダーのテープはどれも傷だらけである。
ライの音楽は、一応ロックの範疇で語られることが多いが、本人からすれば範疇などまったく気にしていないようだ。気持ちのいいサウンドを求めて世界各地を訪問し、民俗音楽や伝統音楽に溶け込んで帰ってくる。
1976年発表の『チキン・スキン・ミュージック』では、テックス=メックス(テキサス=メキシコ)のアコーディオン奏者フラーコ・ヒメネスやハワイのスラック・キー・ギタリストのギャビー・パヒヌイやアッタ・アイザックスらと見事なセッションを繰り広げている。このアルバムにおさめられた『スタンド・バイ・ミー』でのアコーディオンの音色は、いまでも色褪せることはない。
この時、ライは彼らのことを次のように語っている。
「彼らの音楽を聴いていると、やがて、それが音楽であることを忘れてしまうのです。それは常に『気』として漂っているようなもので、音楽を超えてしまっているんです。さらに彼らの凄い点は、歳を取ると共に増々よくなってくることです。彼らのような存在には、本当に勇気づけられますよ」
当然私はアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も発売当日に買ってしまう。
●♪ 沖縄とライ・クーダーとボノ
ライはたびたび日本を訪れている。ライブ以外にぶらっと立ち寄るケースも多いようだ。行き先は、決まって沖縄。オキナワ・サウンドがお気に入りのようだ。喜納昌吉やネーネーズなどとセッションしにやってくる。相棒であるペダル・スティールの名手「化け物」ことデビット・リンドレーの影響だろう。
日本でも一部に私のようなマニアがいるが、あまり知られていない。81年ごろのパイオニアのカー・ステレオ・コンポーネント“ロンサム・カーボーイ”のCMの人と言えば思い出す人がいるかもしれない。アロハを着てチューインガムをふくらませていたのがライである。この時バックで流れていたのが、名曲『アクロス・ザ・ボーダーライン』だ。比較的最近では、アーリータイムスのCMでスライドギターを披露していた。
映画「エンド・オブ・バイオレンス」でライは「ジュビリー2000」の代弁者を務めるボノが率いるU2と一緒に仕事をしている。ヴィム・ベンダースが引き合わせたふたりのアーティストの視線がともに沖縄へと向けられている。
●♪ ふたりのアーティストの視線
映画のクライマックスとなるのはニューヨークのカーネギーホールでの熱狂的なコンサート。夢に見た音楽の殿堂に、不死鳥のようによみがえった彼らの演奏と歌声が、熱く哀感をこめて響きわたる。ステージにはライとその息子であるヨアキムの姿も見える。ライがステージを去る時、聴衆に向かって深々と頭を下げる。押さえようのないものが込み上げてくる瞬間だ。
ベンダースは次のように語る。
「彼らの音楽を知らない人には、すばらしい彼らの音楽についてしってもらいたいですね。そしてすでに彼らのアルバムのファンである人には、ミュージシャンの隠れた素顔と驚くほど豊かなキューバの文化の片鱗を観てもらいたいと思います。キューバは地球上のどこにもないような独特な場所です。しかし、この先、国際化あるいはアメリカ化されてゆくことで、単一的な文化の一部へと墜してしまう可能性があることは否めません」
ライは、さながら民俗学者のようだ。彼はあらゆるタイプの音楽を何の偏見もなく、興味深く、そして価値あるものとして絶大な尊敬の念を持って接してきた。それが、人種や民族や国境や世代や宗教などを軽く通り越して世界中に響きわたっているのである。
その方法は、ハワイのギャビー・パヒヌイが生前次のように教えてくれた。
「奴は(ライのこと)俺のファンだった。で、いい奴だったんで仲間に紹介してやったんだ。その時は一緒にプレイするなんて思ってもみなかった。ところがいつまで立っても、奴は俺から離れないんだ。家までついてきて、じっと座って俺のギターを聴いているんだよ。そしてある日、突然スラック・キーを弾き出したんだ。その時点で、既に完璧だったね」
おそらくベンダースもその方法が知りたくてこの映画を撮ったのだろう。キューバの老ミュージシャン達の演奏に黙って耳を傾けるライの姿が見事に映し出されている。
8、9月に老ミュージシャンたちのグループ「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の日本公演が実現する。
●参考・引用
「SWITCH」特集●ライ・クーダー五線符の荒野 1988年4月号
日本経済新聞
Ryo Keiki's Favorites http://village.infoweb.ne.jp/~ryokeiki/
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