HAB Research & Brothers

「モンダ主義」が残る南相木村

2000年04月26日(水)
南相木村医師 色平 哲郎

 

 21世紀半ばには、この国の住民の3人に1人が65歳以上になるといわれる。ところが、私の暮らす南相木(みなみあいき)村では、現在、すでにそのような年齢構成になっている。ある意味で、「未来」を先取りしているのだ。

 今のところ、あまり老人介護の問題が顕在化することなく済んでいる。それは、むらの持つ含み資産としての「助けあい」の習慣や「お互いさま」の精神が生きているからだろう。

 ●いまも残る道普請

 むらには、かつて「若衆寄合(わかしゅうよりあい)」という組(くみ)があった。後に青年団や消防団に統合されていくのだが、結婚前の若い男衆(おとこしゅう)によって自律的に構成されていた。

 彼らの若い力に頼らざるを得ないような案件は全てこの若衆寄合に付託され、決定され、実行された。たとえば、どこかの家で御不幸があった場合、亡くなった方の墓穴を掘る作業は若衆寄合でとりしきられる。むらの自治を尊重しない者に対しては、寄合が作業を拒むこともあり得る。それこそ火事になっても、消火作業にあたってもらえなくなる。高齢化したこの山のむらにも、若い力がみちあふれ躍動していた時代が確かにあったのだ。

 こうした若衆寄合のような「自治」の組織が衰えていったのは、大正の末年ときく。第一次世界大戦後の戦後恐慌に際し、大正7年に政府からの補助金が、はじめて直接むらに届けられるようになった。自前の組織と努力をもって、むらを治め、守り育てる必要性が次第に少なくなっていった。この傾向は第二次世界大戦後も一貫してつづき、現在に至る。

 ただ、むらにあっては、共同体の重要慣行として「自治」のとりくみは依然として生きつづけた。補助金がやって来る以前のむらのありようを知るお年寄りが御存命であり、むらを治めることは彼らにとって、自分たちで自前でとりくみ、自らの手を煩わせること以外にはなかったからである。

 お年寄り方は誇りをもって、往時を追想する。

「むらの子どもたちの為に、自前で学校を建てた」
「金持ちは金を出し、そうでない者は、もっこをかついで整地作業にあたったもんだ」

 今もむらでは「道普請(みちぶしん)!」と声がかかる。季節の変わり目には、集落総出でむらの道々や川筋を手分けして廻り、ゴミをひろって大自然に手を入れる。他人任せにしないで「公共」を担う自治のとりくみが、数百年の歴史を経た今も、むらでは生きつづけている。

 寝たきりの年寄りなどは、妻、嫁、娘らが看るのが「当然のこと」とされ、モンダ主義とよばれる。

 「若者は・・・するモンダ」「女は・・・するモンダ」「年寄り隠居は・・・するモンダ」。むらに住み、むらで働く若者には「義務ではない、お役目?」として、消防団員になることが当然のように期待されている。

 長く消防署がなく、救急車のなかったこのあたりの地域では、消防団長こそむら最高の名誉職である。まさに「男のなかの男」であり、時に村長(ムラオサ)以上の声望であった。

 自分たちのふるさと、家々や里山を守って備える消防団。大水や山火事、子どもの川流れでは即時の出動になる。そろいの法被をつけての猛訓練の様子、寒風の中の出初式(でぞめしき)のありさまに接して、直接には知らない、徴兵制のあった時代のこの国を追体験させていただいた。

 ●自助、互助、共助そして公助

 家庭内介護の一切の負担は、むらの女衆(おんなしゅう)に転嫁されていた。もし、世話をする女衆がいないときは、近隣や一族の家々で手助けを引き受けていく。それでも無理となったら、年寄りはいやいや都会の息子のマンションに引き取られて行く。

 根っこをしっかりお持ちになっている世代のお年寄りである。町に行くことには、自分の根をひっこ抜かれる苦痛をお感じである。私たち医療関係者が「消える老人」と呼ぶ現象である。従来、施設ケアを指向することは、村内ではなかなか言い出すことのできない、憚りのある言説であった。

 私は、こうした共同体での慣行に、いわゆる「互助」「お互いさま」の精神を感じてならない。良いことばかりではなかったが、自前で取り組む以外にはなかった時代。後にアジア諸国から「おしん」の時代の日本、として知られるようになった時代からひきつづく慣行である。

 何か困った際の「助けあい」の理念は、大きく四つに分けることができるかもしれない。漢字で書けば、自助、互助、共助、それに公助である。ヨーロッパの「市民の社会」では、この四方向からの支援が、順番にしかもバランスよくそろっているものときく。先ずは自分の備え、次いで家族で、一族で、そして地域の小さい組織(たとえば教会)で、との順番になろうか。

 狭い意味での「自助」とは、あくまで本人自身による努力である。自分で自分を救い上げるための、準備やてだてのことを指すのだろう。しかし、自分ひとりでは対処しきれない事態に立ち至ったからこそ「助け合い」が必要とされたのである。したがってここでは、広い意味での「自助」の登場が期待されている。

 日本ではどうも、家族による家庭内の支えを含めて、広義の自助、ととらえていることが多いようだ。

「互助」とは、歴史的共同体のもつ上述のような「自治の力」であろう。隣近所や一族血族の団結によって、慣行として維持されてきた力であり「お互いさま」とのことばで象徴される、互酬(ごしゅう)感覚であった。

 自前で取り組む消防団活動、講とよばれる信仰の集い、村祭りを維持するいとなみ、そして雪かきや道普請など、各自の「時間」を都合しあってのとりくみなどになろうか。洋の東西を問わず、古来「支えあい」といえば、互助のイメージで語られてきた.

 「共助」というのは、各自の「お金」を出し合って、農業や漁業、林業等のむらの生業(なりわい)について、協同の組合組織を作ったりすること。戦後にあっては、協同組合の力で低利の融資にとりくみ、村内の一部高利貸の横暴に対抗することもあったときく。また健康保険のような制度は、形のうえからいえば共助に入るだろう。歴史的には、比較的新しく出現した「支えあい」の形となろうか。

 そして、「公助」とは、各自治体のもつ公衆衛生や社会福祉のメニューである。誰もが受けることができる、しかし従来的には、おなさけの「恩恵」として、行政側から一方的に与えられるもの、とのイメージで受けとめられてきた支援方途であった。

 ●都市に欠ける共助の精神

 日本の都市部では、以上の四要素からなる「助けあい」図式上では、両端にあたる自助、公助ともにそろっている。しかし古来からの互助領域については、もともと下町(の長屋)などではしっかりとしてあったはずの隣近所の付き合いが衰え、これに伴って、人と人とを繋ぐ関係性も衰えてしまっているのではないか。

 近代的な共助領域についても、日本の都市ではいまだ未発達なのではないか。消費生活での生活協同組合の営みは画期的なものである。しかし自発的市民のボランティア活動については仄聞する程度である。最近では、介護のための市民ボランティア組織NPOも出てきているが、まだまだ大きな力とはなり得ていない。

 農村部にくらす私であるから、なおさらそう思えるのだろうか。農村ではいまだ古来の「お互いさま」の人情味に支えられた手厚い互助が維持されており、「お金を介さない」強固な人間関係の上に築き上げられて、豊かなものがある。共助も、戦後の協同組合法による各種組合や財産区入会(いりあい)等の管理運営を通じて、確固とした基盤を築いている。

 しかし農村がいつまでも楽観的でいられる、というものでもないのだろう。確かにむらではいまのところ、現在の都市部で認められるような風潮は一般的ではない。しかし一世代の後には、モンダ主義的「支えあい」としての、女衆の献身(的介護)には期待できなくなると、私は見ている。

 より正確には、近年の都市では自治のとりくみが衰えてきていて、「支えあい」(互助と共助)の部分でとりくむべき助けあいについては、自助「おかね」と公助「おかみ」の双方に押しつけて一応の解決をみることにする、との安易な方向に陥ってしまっているのではないか。

この典型例が、介護の分野であるように、私は思う。

 ●むらにあった「医者どろぼう」という言葉

 むらではかつて医療さえも、「自助」の枠内にあった。

 私の自宅のすぐ目の前に、江戸中期からの二百八十年の歴史を有する萱葺(かやぶき)の大きな農家がある。すばらしい構えの屋敷である。旧道から急坂を登って土蔵、味噌倉を過ぎ、深井戸がある。内部はオクザシキ、オモテザシキ、コザシキ、ナカノマ、チャノマ、デードコとあって、周囲には廊下を廻らしてある。囲炉裏端の主人の座からは、二頭の馬の顔が望め、中二階には蚕室がある。土間の高い所には、トキを告げるオンドリの住む小部屋もあった。

北向きの奥に、産室がある。産室には木の棒が渡してあり、そこに掴まって十世代からの女衆(おんなしゅう)は赤ん坊を産んできた。そんな時代のむらでは、産婆さんが取り上げきれずに母子ともに亡くなったことがずいぶんあったものだときく。

 集落のあちこちで、無医村時代の悲哀が語られる。昭和初年、32才の母親が6人目のお産の後、苦しみだした。産婆さんも手に負えないという。すぐに医者に診てもらわなければいけないのだが、むらには電話も車もなかった。駅のある町までいけば医者がいるが、急いでも2時間はかかる。むらの若者に走っていってもらうことにした。

 しかし、お願いするには、なにかしなければいけない。そこで、どうしたか。若者に御飯をたらふく食べさせた。お金をあげる習慣はなかった。ご馳走(ちそう)してもらった若者は10キロほど下った町まで走って下っていった。しかし、なかなか戻ってこない。母親は苦しんでいる。やっと戻ってきたのは7時間後、それも医者といっしょに車に乗って。このときむらびとは初めて自動車というものを見た。

 戻ってきた若者が言うには、最初に行った馴染(なじ)みの医者が不在だったため、川向こうの、ふだん付き合いのない医者を呼んできたとこことだった。馴染みの医者であればすぐに診療費を払う必要はなく、節季払いでよい。その医者は診察後「はい、40円になります」と言った。みんな、「往診代25円」と「車代15円」との金額に圧倒された。

 手遅れだった。元気に生まれた男の子も、ヤギの乳を飲ませて育てたが、4カ月余りで死んだ。馬一頭が30円、郵便配達員の月給が16円の頃だ。昭和農村恐慌の渦中にあったむらはまゆ価が暴落し、収入源の養蚕も壊滅状態。母子を亡くした一家に借金だけが残った。

 現金で支払うべきものと、現金を必要としないものとが、当時のむらの生活にはあった。村内では、人と人の間にも、共同作業など「お金を介さない」関係が成立する時代だった。医者を呼びにいってくれた若者に対するように。しかし、医者には、それは通用しなかった。現金化できるものは蚕と子馬だけの時代。むらびとにとって医者を呼ぶことは、ぎりぎりのくらしの中で大きな負担だった。「医者どろぼう」ということばの生きていた、そんな時代だった。

 家族の病気やケガに関しても、すべてを自助と互助によって対処するより他にはなかった。自分たち百姓の健康を守ることなどに、貴重な現金を費やすことはできないという、苦しい農村の実態があった。医療に自助努力を強いるとは、無理難題なのであったが、無医村の現実からは逃れようがなかった。

 これではいけない、ということで、医療に「支えあい」の概念を持ち込んだのが、無医村に組合診療所を建設する農民運動であった。やがて、国民皆保険制度が導入され、むらに医師さえいれば、へき地であっても保険証一枚で医療にかかれるようになった。これが、むらにおける医療に関して、自助から近代的な「支えあい」(共助)実現への大きな流れである。

 ●割を食う小金持ち、中産階級

 では、介護の現場においてはどうであろうか。日本では、これまで介護といえば、家族で看ていくか、ケア付マンションなども含めて施設に入れてしまうか、医療保険をつかって入院させておくか、選択は三通りしかなかった。

 病気やケガが治るかあるいは症状が落ち着いても、家に引き取るのが大変だから、と病院に置いておく。この選択肢はいわゆる「社会的入院」とよばれる方便だ。莫大な金額が費やされ、「福祉の医療化」とよばれる事態をひきおこした。4月から介護保険制度が導入されたのは、この点の「解決」策を模索してのことだろう。

 従来の仕組みでは、大金持ちと低所得者はそれなりの介護が受けられたのである。大金持ちは資産にものをいわせて、低所得者層は公共の福祉行政によって、それぞれに支援を得られる。つまり、自助と公助にあたるだろう。結局「支えあい」(互助、共助)の感覚が薄い社会で割りを食うことになるのは、国民のほとんどを占める小金持ち、中産階級である。

そして、今回、介護保険制度が導入された。

 介護保険とは、共助としての保険制度で、従来医療保険に転嫁されてきた負担に備えるというものだ。保険制度とはみなでお金を出し合って、不意の事態に備えようとする企てである。

 一部政治家は言う。「家族でご老人方の介護を担わなくなってしまったのは、まことに嘆かわしい風潮だ」。この言い方は、「だから介護保険など意味がない!」という主張にまで発展してしまう。このような論調は、俗耳には入りやすい。しかし、私たち現場を知る者にとっては、まったくナンセンスな言い分である。

 それは、つらい現実が眼前にあるからである。昔なら、寝ついて数週間で亡くなっていたご老人が、今では医療技術の進歩もあってか、平均して3年保つ。私のむらでは、18年間家で寝ついていた人がいた。平均3年とはいうが、渦中にいる介護の当事者(ほとんどが女性)にとってはエンドレスに思える時間であろう。

 お年寄りが寝つく期間は、これからさらに長くなることが予測される。そうしたはてのない時間の中で「介護は自助で」「家庭内介護こそ親孝行」という議論は、到底無理な相談なのである。ここに、今回、介護保険制度が「共助」のとりくみとして導入された意義があるのだろう。

 ●期待したい互助の再発見

 今回導入された介護保険制度が最良の方策だとは、私はまったく考えていない。あくまで、古来から共同体の「自治と互助」の範囲で支えてきたことがらについても、現代の諸要請に応えて「共助」領域をはりだし、協同のいとなみとして支持していこう、との方便であろう。

 介護度の認定作業にも、ケアプランの作成過程にも、吹き出すであろうご不満への対応方途にも、今なお不分明な点が多い。ただ、この制度を利用し、実態を知ることを通じ、地域社会に本来根ざしてあったはずの「互助の力」を見直し再発見することができる、そのきっかけたりうるのではないかと期待している。

 介護の市場ができあがることで、いままで以上に多くの人々が介護の「実際」に関わる可能性が出現する。実体験が積み重ねられていくことで、新たな「関係性」が生み出されてくることを期待したい。このときこそ、両親や自らのことへと立ち返り、共同体における新たな「支えあい」がどうあるべきなのか、と自問することになろう。

 この問いをしっかり見据えながら、超高齢社会への対応戦略を、「未来」を先取りしたこの山のむらで考えつづけていきたい。

 ●最期の下(しも)のお世話

 患者さんの下の世話を医者が担うことは少ない。ふだんは看護婦さんまかせとなっている。しかしある特別の場面で、印象的な「大便(だいべん)様」との出会いがある。皆さんはご存知だろうか。それは亡くなった患者さんの御遺体の最後のケアする時である。最近では自宅で御老人を看取ることが少なくなったせいだろうか、この大事なケアについて無頓着というか、御存じない家族に時々おめにかかる。

 度重なる往診に続いて、いよいよわたしたち医師があたまを下げたとき、どうしよう。つまり90歳代の御老人が、たとえば皆さんのおばあさんが、御自宅で息をひきとった際、皆さんならどう動かれるだろうか。

 しばらくの間をおいて、わたしは御老人の肛門に綿をつめ、女性であれば陰部にもつめ、鼻と口にも綿をつめて、下あごをきちんともちあげて口を閉じるようにする。そしてからだをタオルで清めてから、両手を胸の上で組んで固定する。時には硬直がくるまでの間、紐で固定することもある。この一連の「作法」を故人がよろこぶのかどうか、全く不明である。訊ねようもない。しかしある時、数時間家族まかせにして、ふとんが大便だらけになったことがあるので、わたしとしては、積極的にとりくまざるをえない。

 またわたしひとりでこの作業をすることは稀(まれ)で、ほとんどの場合その場にいあわせている、女衆(おんなしゅう)つまり動けそうな女性方に声をかけて、いっしょにとりくむことが多い。何故女性に声をかけるのだろう。それは無難だからであるが、このうんちだらけになる作業がはじまるときが、それぞれの家人と故人になった方との人間的なつながりのありようがよく分かる瞬間なのである。

 母親をしたう息子はすすんで身を乗り出して取り組むし、台所にかくれてしまう何人かもいるわけだ。故人と各人との長い長いつきあい、他人には容易に介入できない人生の総決算の時、とわたしは考えている。

 前後して、わたしは村の診療所にもどり「診断書」を書くことになる。大往生のときは、わたしなりの故人への思いで書き上げる。ひととなりを知る故人であればあるほど、書くのに手間どってしまう。逆にいえば、はじめて往診して看取ることになった方の場合など、思い入れなく書けるというものだ。

 山の村では、出会いと同様、別れも個別のものである。


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