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ドイツ人日本学者が考える「日本の新聞」

2000年04月17日(月)
在独ジャーナリスト美濃口 坦



 最近、現代日本文学を研究するドイツ人の友人と久しぶりに会って、長々と話し込んだ。彼と私は学生時代しばらく住居もいっしょで親しかったが、遠くの町の大学に就職してしまったので数年に一度しか会わない。

 彼は日本語が達者であるが、私が関西弁を話すせいか、会話はドイツ語になりがちである。昔も今も彼とは通り一遍の話しにならないで、特定のテーマに集中する。今回は日本とドイツの新聞の相異についての議論になった。

 ヨーロッパには昔から社会のエリート層に読まれ発行部数が低いクォリティー・ペーパー(高級紙)と、発行部数が何百万もある大衆紙の区別がある。よくいわれるが、読売新聞とか、朝日新聞とかいった日本の日刊新聞はこのヨーロッパ的区別があてはまらない。ヨーロッパから見ると分類不可能な、本当に日本的な存在である。

 彼にとって専門外の発言であることから実名を出さない条件で、話した内容をここに書くことに承諾してくれた。彼を便宜上オットー君と呼ぶ。

 ●「充分な現場取材して、、、」という考え方

 オットー君によると、日本の新聞には「ナイーブなリアリズム」というべきイデオロギーがその根底にあって、これが組織、紙面の作り方、個々の記事の評価、取材の仕方に反映しているという。彼はこのイデオロギーと、昔丸山真男がいった「実感信仰」とはかさなる部分があるともいう。

 「そのために、日本の新聞には現場至上主義というべき考えがある」と彼にいわれているうちに、私にもわからないことはないという気がし始めた。というのは、私も「現場」という考えが日本の新聞記者の頭をいかに強烈に支配していいるかについて、一度驚いたことがあるからである。

 それはかなり前のことで、欧米社会には珍しくない「アウシュビッツの嘘」を肯定する原稿を掲載した雑誌が日本で問題になり、廃刊になったことがある。

 当時日本の雑誌を読んでいると、ある元新聞記者がこの「アウシュビッツの嘘」を肯定する原稿の著者を批判している。批判することに文句はないが、「現地に行って充分な現場取材をしないで書いた」とするこの人の挙げる理由に私は正直のところ驚いた。

 というのは「アウシュビッツの嘘」という話しは「現場に行って事実を検証したら真相がはっきりする」筋合いのものではないからである。この記者が元気に主張するように、現場に行って事実検証を始めたとする。チクロンB残余量の化学検査もその例である。

 ところが、そんなことをすることが「アウシュビッツの嘘」を肯定するとして非難されているのである。というのは、対立そのものが「歴史的事実」対「犯罪学的事実」とい性格があるからだ。

 この「歴史的事実とは何か」という厄介な問題を含めて「第三帝国」について半世紀以上も議論してきた歴史学の蓄積に重きを置かないという点では「アウシュビッツの嘘」を肯定する日本人著者も、またそれに反対するこの高名な新聞記者も私には同じように思えた。

 どちらも強制収容所という「現場」に謎を解く事実を見つけることができると考えているからである。事実が現れて白黒の決着つけてくれるとする考え方をオットー君は「ナイーブなリアリズム」と形容しているのである。

 ●「事件‐現場‐当事者」という図式

 いずれにしろ、半世紀以上前の犯行現場がそのまま残っていないし、当時の証言者の証言も、歴史家によって編集されたり、あるいは裁判所の証拠書類というかたちで残っている以上、「現地に行って現場取材をする」とは、具体的には何を意味するのだろうか。

 本当は、図書館に行って今までこのテーマについて書かれた文献の一部にでも眼を通し、種々の論拠についてじっくり考えてみるほうが良いかもしれないのである。

 私には「事件‐現場‐当事者」という図式が、「現場取材」を至上とする新聞記者の頭のなかにすっかり根を降ろしているのだと思われた。彼はアウシュビッツ生還者に会って、すでに歴史家や検事に話したことを自分に対しても繰り返してもらう程度のことを考えていたのではないのか。

 でもその当事者に会って証言を繰り返してもらうことで何が明らかになるのだろうか。多分話しをしながら彼の表情や様子を観察できるかもしれない。恐らく「ガス室に言及された途端、彼の顔に深い悲しみ色が漂った」という文章を書ける瞬間が来るかもしれない。

 ところが、この時この記者は何について取材をしたのであろうか。彼は「アウシュビッツの嘘」に怒ったり悲しんだりする被害者を取材したのである。でも最初、原稿の著者を「充分な現場取材を怠った」といって批判したときには、「『アウシュビッツの嘘』に悲しむユダヤ人を充分取材しなかった」ために非難したのではなかったはずである。もしそんなことを書けば自分でも変だとすぐ気がついたと思う。

 私が指摘するこの相異は「現場の事実がすべてを解明してくれる」と考える人々にとってどうでもよい些細なことであるのはいうまでもない。

 ●「現場」とは何か

 私が当時雑誌を読みながら考えたことを思い出し、オットー君が主張する「ナイーブな現実主義」とか「現場至上主義」を理解しようとした。

 それでは「現場」とはいったい何なのか。もちろん事件が起こる空間が現場であり、ニュースとはこの現場という空間で知覚・選択された事実が発信されるものである。例えば、どこかで地震が起こればそのニュースは多くの人々が知りたいのである。

 どんなお高くとまったヨーロッパのクォリティー・ペーパーにとっても「事件」とか、その「現場」は絶対重要である。紙面も事件を中心に組まれている。その点ではどこの国の新聞も似たり寄ったりである。そこで、日本の新聞との相異をはっきりさせるために視点をずらしてみる。

 なぜジャーナリストがどこの国でも落ち着かない生活をおくっているのだろうか。いつも「事件現場」にむかって駆けつけるからであろうか。

 ところが、たいていは「事件現場」でなく、事件が発表される現場に赴くから忙しいのである。言うまでもなく「事件そのもの」と「事件について(思い出して)語ること」は別々のことであるように、「事件現場」と「事件発表現場」は峻別されるべきものである。オットー君によると「現場至上主義」とはこの二つの相異なることを区別する意識が乏しいことになる。

 「政治部」とか「経済部」とかいった具合に分野別に組織されている点で日本の新聞社もドイツの新聞社も似ている。ところが、日本ではこの部が更に「事件現場=発表現場」ごとに分けられている。これが日本独特の「記者クラブ」制度である。ドイツのほうは日本的呼名でいうと部員はすべて「遊軍」ということになる。

 日本の新聞社の「現場」に基づく組織形態が「現場至上主義」の反映であると同時に、紙面の作り方にも、また記者の意識にも影響を及ぼし、「現場至上主義」を強化するのに役立ったことはいうまでもない。

 ●記事のタイプの多様性

 日本の大新聞の「現場」に基づく組織形態は、人員を一番投入している主要活動が「現場」からのニュースの発信であることの反映でもある。日本で現役の記者とは「現場」から発信している記者である。

 反対に、ドイツの新聞はこのタイプのニュース記事は通信社の記事で間にあわせる。この相異は、日本の新聞の発行部数が高く、それだけ人員をかかえているためである。ドイツの新聞の発行部数が低く、私が発行部数を聞くのがはばかれるほど小さい新聞である。

 クォリティペーパーではドイツ最大発行部数を誇る「南ドイツ新聞」でも35万部で、常勤記者は三百人を超えない。毎日平均80ページ以上の紙面と、競争が激しく種々のニーズに答えるためにどの新聞も付録週刊誌を2、3冊は出している。

 慢性的人員不足の彼らから見ると、「事件発表現場」に自社ライターを常駐させる「記者クラブ」は理解しにくい。ニュース記事の外部発注に慣れた彼らは、このように巨大な新聞社を見て、ネジもホースもバルブも部品の大部分は自前でつくった旧共産圏の自動車メーカー・コンビナートを一瞬連想するようだ。

 ところが、これも高度資本主義国家日本のイメージに合わない。そこで、手狭になった新聞社が家賃の高い東京でコスト節約のため役所から事務室の便宜給与を受けていると思い込んでいる人々も多い。

 彼らが全力投球するのはニュース記事でなく、他のタイプの原稿である。重要なテーマであれば、自社の記者に臨場感にあふれたルポを書かせたり、評論的な記事を書かせたりする。要するに色々なタイプの原稿で読者の需要に応じようしていることになる。

 コラムからはじまって政治や経済についての抽象度の高い分析的な評論まで原稿のタイプの多様性こそ、日本の大新聞とドイツの新聞の一番大きな相異であると私には思われる。書くのが好きで記者になる人にとってはドイツで就職するほうが日本より色々なタイプの原稿を書くチャンスがまわってくる。

 ●社会現象はこの図式で収まらない

 日本でもルポ的な原稿、評論的ものを自社の記者に書かせることがある。ところが、記者数が多く頁総数が少ないために個々の記事に与えられる紙面が小さ過ぎるのが残念である。「現場至上主義」イデオロギーの結果、聞いたことでなく、「地の文」を綴るにあたって抽象的なことを書くことに病的不安を覚える記者が少なくない。

 具象レベルを離れることは彼らの意識の上で「現場」を離れ、「抜かれる」危険にさらすことに等しいからだと思われる。「死んでもラッパを離さなかった昔の日本兵を思い出す」とオットー君はいう。

 読者に本当に面白い部分は同僚との会話や個々の記者が頭のなかで考えた部分にあって、紙面にあらわれないのではないのか。オットー君も私も新聞学などとは縁がない。私のほうは、以前調べものがあって1944年から46年ぐらいまでのスイスを代表する「ノイエ・ツリュヒァー・ツァイトゥング」に目を通したことがある。

 当時は朝刊、夕刊だけでなく正午にも新聞が出ていたのに驚いた。また紙面も現在の日本の新聞に近いという印象をもった。ヨーロッパの新聞はテレビの勃興とともに差別化戦略をとったのに対して日本の新聞はあまり変わらなかったのではないのであろうか。

 社会で重要な現象の多くは「現場至上主義」的図式に収まりにくい。収まりやすいはずの犯罪事件でも半世紀経過すると問題が生じる点はすでにしめした。重要なことは、5年、10年、あるいは20年、30年といった歴史的展開のなかでしか理解できないことが多い。

 議会制民主主義で立法化は重要である。このルール化という抽象的作業に重要なのは社会内部に並存する種々の価値であり、これらの価値と事実とが関連づけられて賛成もしくは反対の論拠がうまれる。ここで重要な価値も「事実」も「事件−現場−当事者」という推理小説的図式に収まらないことが多い。

 日本の新聞の政治記事に関してオットー君が批判するのもまさにこの点である。個々の例外があるにしても、これら記事の多くは「現場至上主義」的図式で書かれていると彼は主張する。政治家が「等身大」で描かれ、その結果「事件の当事者」として読者の親近感あるいは反感の対象になるだけで終ってしまうことが多い。

 ところが、こうして政治議論の内容がはっきりしない状況が生れることこそ、議会制民主主義の機能不全をひきおこす原因の一つであるとオットー君は考える。


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