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カルテル武装列島の四半世紀(2)

2000年03月03日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄



 繰り返すが、サミットが始まったのは1975年である。戦後、戦勝国がつくった国際機関であるUnited Nations(連合国=国連)は安全保障理事会の常任理事国として5大国が議論を牛耳るはずだった。だが冷戦構造が進む一方で、アジア・アフリカの新興国が多く加盟し、アメリカにとって国連はもはやアメリカの利権を思うがままに動かす場ではなくなっていた。

 サミットは国連に代わる主要国による新たな国際問題を討議する場となった。ここにアメリカの世界戦略の大きな転換点を見出すことができる。その一角に敗戦国の日本とドイツが入り、当然ながらソ連と中国は排斥された。

 母胎となったのはパリにあるヨーロッパを中心とした西側先進国の経済フォーラムである経済協力開発機構(OECD)である。基本的にOECDでいったん論議されたアジェンダがサミットに上程されるという仕組みが出来上がった。

 ●サミットが打ち出した構造改革

 そんな時に始まったサミットの命題は、まさに自由主義経済圏の復権であり、活性化だった。いわば自由主義経済圏の集団指導体制の確立と言ってよいだろう。いまはやりの規制緩和も「構造調整の必要性」をうたったサミット経済宣言に端を発するとい言ても言い過ぎではない。

 いまやアメリカはドット・コムを中心とした情報関連産業の活況を背景とした好況のなかで切れ目のない経済成長を謳歌しているように見えるが、つい7、8年前までは「インフレなき経済の持続的成長」という表現は長く、サミットや先進七カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)の共同声明に欠かせない枕詞となっていたのである。

 1970年代の西側経済はそれだけインフレと成長の鈍化に悩まされていたということになる。そうした経済的隘路を打破するには「抜本的構造改革」が必要とされたのだ。

 欧米にとって構造改革は「規制緩和」を意味した。棲み分けが進んだ産業分野に、新規参入を許すことは産業界に波風を巻き起こすことでもあった。また新規参入者たちがただちに立ち上がるというものでもなかった。だから規制緩和は効き目が出るまでに時間がかかった。加えてヨーロッパでは市場統合という新たな実験を開始したから、活性化までさらに多くの時間を要した。

 イギリスでビッグバンが起きたのは、エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を上梓した時期である。日本が「日の昇る国」として「落日」の欧米を眺めていたころ、サッチャーが規制緩和による国家改造を始めていた。財政再建のための国有企業の民営化にの着手し、英国航空、ブリティシュ・テレコム(BT)、ブリティシュ・ペトロリアム(BP)などが相次いで上場を果たした。ただちに経済活性化にはつながらなかったもののイギリスは国有企業の株式売却で後に財政の黒字化に成功した。

 ●特安法と産構法でカルテル化した日本列島

 当時、そんな規制緩和の意味合いを十分に分かっていた日本人はほとんどいなかった。日本での構造問題の議論はサミットでの議論とはまったく逆の方向に進んだ。規制緩和ではなく、大企業によるカルテル化の必要性が叫ばれた。繊維業界に始まった共同設備廃棄や生産調整は「構造改善事業」と呼ばれ、ついに第二次オイルショックの最中の1978年、「特定不況産業安定臨時措置法」(特安法)によってカルテルが制度化された。

 まず政令でアルミ精錬、ナイロン長繊維など六業種四候補を「特定不況業種」に指定、その後、繊維、石油化学製品、セメント、ソーダなど主だった素材産業に指定が拡大した。5年間の臨時措置だったが、1983年からは「特定産業構造改善臨時措置法」(産構法)に引き継がれ、大企業カルテルはつい最近まで続いてきた。

 遅効性が弱点だった欧米流の規制緩和に対して、日本産業のカルテル化は即効性があった。ただ即効性の反動としてカルテル依存症という副作用が大きく、2000年を迎えた今になっても政府依存症が抜けきらないでいる。

 日本の産業の6、7割がなんらかの形で規制がかかっているといわれるのは日本の産業界の伝統でも文化でもなんでもない。石油ショックから脱却するために国家が広範囲にカルテルを認め、産業界がそのうま味を離さずに経営できなくなっているだけだ。

 ●中曽根民活の落とし穴

 日本のNTTやJRなどの民営化は、当時の中曾根首相がサッチャー政権に見習ったものだったが、民営化のスピードが遅く、NTTの場合は15年をすぎた今も株式の放出を終えていない。サッチャー流民営化と大蔵省流の民営化の最大の違いはあまりに大きい。

 まずイギリスでは民営化は株式の100%放出を原則としたの対して、日本の場合はNTTは3分の1、JTにいたっては3分の2も政府が持つことになっている。それぞれ放出株式の比率を法律で定められており、民営化後も大蔵省が影響力を温存できるようになっている。

 二番目の違いは民営化でリストラが迫られる国営企業に株式の売却益を還元しなかったことである。イギリスでは、まず国営企業の従業員を対象に自社株購入を募り、放出株式の一部を従業員に有利な価格で放出した。分かりやすく言えば、リストラの落とし前をちゃんとつけたということになる。日本では、社員に対するインセンティブは一切なく合理化だけが待ち受けていた。


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